【特集1】この国の司法はおかしくないか

瀬木比呂志

せぎ・ひろし | 

1954年、名古屋市生まれ。東京大学法学部卒。1979年以降裁判官。2012年明治大学教授に転身、専門は民事訴訟法・法社会学。


司法が変われば日本が変わる

原発訴訟で果敢な判断をすると冷遇

福島第一原発過酷事故の刑事責任をめぐる裁判の判決が出ました(2019年9月19日、東京地裁)。判決原文まで詳細に検討したわけではありませんが、この判断を含め、原発訴訟は全体に政府・国策への忖度という傾向が非常に強いと思います。

近年では、2011年の福島第一原発過酷事故後の再稼働をめぐって、差止めを認めなかった多くの判断で、裁判官たちが、火山ガイドの相当性に疑問をしめしつつ、しかし日本の「社会通念」からすればこれでいいのだという判断をし、差止めを否定しているのは疑問です(僕の朝日新聞ウェブサイト『論座』掲載の2つの論説参照)。裁判官がみずからきちんと判断をしないで、社会通念というものに下駄を預け、一種の判断回避をしている。そういう民事系統の判断のほうがより問題が大きいと思います。

今回の裁判では刑事責任が問題になったわけです。倫理的・社会的責任ということはもちろんあるでしょうが、刑事責任ということになると、そこは詰めれば微妙な問題がでてきうるところです。倫理的・社会的責任と刑事責任では判断のレヴェルが違いますので。もっとも、あれだけの大きな事故で誰も責任を負わない、何も問われないでいいのかという意見は理解できますが、裁判ですから、結論がこうでなくてはいけないということはいえないし、証拠を一つ一つみないとわからないところもあります。

もっとも、僕自身の気持ちからいえば、津波のシミュレーションの結果が出ているにもかかわらずそれに十分に配慮しなかったことは、非常に問題だと思います。

大きな企業とか官の責任が、日本に限らずほかの国でも十分に問われているかということはあるとは思います。ただ、日本では、官僚や幹部の責任が本当に問われない。併せて、原発のように国策的な事柄になると、全体としてみて、裁判所の十分客観的、中立的な判断がなされているのか相当に疑問だということはいえると思います。

差止めに関する原発訴訟については、最終段階になって、それなりに原告側に理解を示した裁判長とか、果敢な訴訟指揮を行った裁判長が異動になることがあるとはいわれています。

関西電力大飯原発3・4号機の運転差し止めを命じる判決(2014年5月)を出された樋口英明さんは、直後に、名古屋家裁の裁判長という、それまでの樋口さんの経歴を考えれば、考えにくい異動になりました。

一般的にいっても、いくつかの本で僕が書いているとおり、果敢な判断をした裁判官がその後処遇の面で不利になることはあります。そのために裁判官が萎縮をしている。そういう傾向も強いです。さらにいえば、日本の裁判官の官僚的性格の強さも、明らかでしょう。

 

相撲番付のような序列、ヒエラルキー

日本の裁判がそういうことになっているのは、昔からです。社会がだんだん洗練されてきたので、そういうことが目立つようになったという側面はあると思いますが。また、僕の『絶望の裁判所』(2014年、講談社現代新書)などが一つのきっかけになって、司法批判の記事が、インターネットメディアも含めてかなり出るようになった。そういうこともあると思います。一人一票の訴訟であるとか、それをおこなった弁護士の発言がアピールしたこともあります。

ただ、古い体質については、司法が特別ということではなく、行政も全く同じでしょう。戦前の体質をそのまま引きずっている。特に、裁判官については、日本みたいに大相撲の番付みたいな出世のシステムをとっている国というのは、先進諸国ではあまりないでしょうね。本来、そういうシステム自体が、裁判官にはふさわしくないものです。ところが、行政官僚と同じような階段を上っていくシステムになっている。ここに根本的な問題があります。

日本の裁判官は、基本的には、司法試験に合格して研修を受けている司法研修所の卒業者の中からしか採用されないキャリアシステムをとっています。現在、簡裁を除くと約3000人の裁判官がいますが、その人たちは、微細な序列のどこかに置かれています。

日本の裁判所の目立った特徴である、最高裁長官―事務総局―人事局というラインに基づく上命下服、上意下達のピラミッド型ヒエラルキーの中にあるということです。頂点に最高裁長官と14名の最高裁判事、次に高等裁判所長官(全国に8人、序列は東京、大阪、名古屋、広島、福岡、仙台、札幌、高松の順と思われる)、そして東京、大阪等の大都市の地家裁所長(同じ場所の地裁は家裁より格上)と東京高裁の裁判長、少し後れて大阪高裁裁判長……と胸が悪くなるような細かい序列があります。

これを事務総局、ことにその人事局が統制しているわけです。

僕は、東京地裁の裁判長まではやっているので、だいたい全体が見渡せるような場所にはいったわけです。そういう経験からいえば、日本の裁判所は、権力チェック機構としての側面が弱すぎ、権力補完機構としての側面が強すぎるというのが、基本的な評価となります。裁判所が本当に権力チェック機構に徹している国がどれだけあるかと言ったら、先進民主主義国でも一部ということになるとは思うんですが、日本の場合は、「権力補完機構的な側面があまりにも強い」と思いますね。

社会の右傾化がどれだけ進行しているのか。確かにメディア、インターネットを含めて、ナショナリズム的な考え方、感じ方が強くなっているとは思いますが、必ずしも裁判所がそれに同調して右傾化しているというわけではないだろうと思います。

しかし、裁判所自体が、2000年代、司法制度改革を通じるなかで、むしろ悪くなった。それは外の世界との関係もあるだろうけれど、裁判所自体の問題として悪くなったというところがあります。以前に比べても権力チェック機構としての側面が薄くなっています。個々の裁判官をみれば勇気ある人もいるとは思いますが、割合は大きくない。全体としてみると、そういう傾向はあります。

しかし、変えることはできます。日本社会全体も変えることはできるし、変えなければ、現在の停滞とか閉塞感は消えないでしょう。ただ、日本社会のほかの場面と同じく、変えるのはそんなに簡単ではない。

はっきりいえば、それは、権力側の問題だけではなくて、国民、市民の問題でもあるわけです。そこが変わらないと、なかなか変わりません。

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