「平成」の天皇とは何であったのか(1)

――冷戦後30年の日本政治と天皇

渡辺 治

わたなべ・おさむ | 

1947年生まれ。政治学、一橋大学名誉教授。著書に『戦後史のなかの安倍改憲―安倍政権のめざす日本から憲法の生きる日本へ』(新日本出版社)など。本誌編集委員。


はじめに

2019年4月末に天皇明仁が退位し、翌日、徳仁が新天皇に即位した。2016年8月の明仁による「退位」表明の「お言葉」以来、この即位をはさんで、秋の即位礼正殿の儀、大嘗祭に至る数年間、天皇と象徴をめぐる議論が「活発」化し平成の天皇への礼賛の嵐が巻き起こった。

この数年間の事態は、昭和天皇の死去と新天皇への代替わりに際しての事態とは著しく異なる相貌を見せている。いずれの時にもマスメディアを先頭に、天皇礼賛が吹き荒れたことには変わりがなかった。

ちがったのは、そうした天皇代替わりに際しての天皇、天皇制に対する批判的言説の存在の大きさである。89年の代替わりに際しては昭和天皇礼賛に対し、昭和天皇の戦争責任を問う声をはじめメディアにおいて、相当の批判が展開された。自粛キャンペーンが吹き荒れる中、戦前の暗黒時代への復古の危惧も論じられた。また、そうした昭和天皇批判に反発して、右翼の暴力も頻発した。ところが、今回の代替わりに際しては、「平成流」に対する礼賛の氾濫に比して、「平成流」や天皇制そのものに対する批判は極めて少なかった。その結果、右翼の暴力もなりを潜めた。

天皇・天皇制批判が減少したのは、昭和天皇の時代に比して「平成」の時代になって天皇の政治への影響力が減ったからなのか、憲法が禁ずる天皇の行為、保守政治による天皇利用が減り、より憲法に沿った運用がなされるようになったからであろうか?

確かに一九八九年当時、批判派の一部が危惧したような、日本の戦前への復古主義に天皇が利用されるようなことは起こらなかったし、「平成」の天皇はことある毎に「平和」を口にした。けれども、あとでくわしくみるように、憲法のめざす天皇像への接近という点では、むしろ逆であった。戦後日本国憲法下に限ってみれば、昭和天皇と天皇明仁の時代を比べると、明仁の時代の方がはるかに憲法の求める天皇像からの逸脱が激しくなっている。本人たちが「旅」と自称する、憲法が認めていない外国訪問については、昭和天皇の2回に比べて、平成の天皇は即位後だけでも延べ41回に上り、同じく国内での行幸・啓も著増している(*1)。政治的性格の濃厚な、つまり憲法が禁止している「お言葉」も顕著に増えている。「平成の御代」などという言葉がごく〝普通に〟使われるありさまだ。

にもかかわらず、天皇・天皇制批判ははるかに減少したのである。それはなぜだろうか?

しかも、今回の代替わりをめぐる言説、議論には、これまでの天皇論議には見られなかった議論のねじれが起こったことも注目される。それは、天皇の退位表明以来、退位と代替わりに際して、これまで一貫して天皇・天皇制擁護を掲げてきた「右派」、「伝統派」が厳しい天皇批判を展開し、逆に、昭和天皇の時代には天皇、天皇制に対して厳しく警戒的であった、「リベラル」「保守」の側が天皇、天皇制擁護の論陣をはったことである。

もっとも、天皇の言動に対する伝統派の批判は、あとでみるように、なにも今回の退位表明以後に始まったわけではなく、「平成」の天皇になって以降、間歇的に噴出してきた。いわゆる「リベラル」派の天皇批判も「平成」の天皇への代替わり以降次第に少なくなってきてはいた。しかし、今回の退位、代替わりに際してみられるような右派の公然たる天皇批判、「リベラル」派の「平成」礼賛の大合唱という、まことに薄気味の悪い事態は、今回始めてみられた事態であった。

では一体、こうした天皇・天皇制批判の衰退、さらに天皇論をめぐる議論のねじれはどうして起こったのであろうか。その秘密は、天皇明仁への代替わり以降30年に及ぶ政治と天皇の関係の推移の中に隠されていると考えられる。

そもそも、平成の天皇、天皇制とはなんであったのか?

そこで本稿では、改めて、冷戦後の日本政治をめぐる対抗と天皇の関係に焦点をあててこの30年をふり返り、一体、そこで何が起こったのかを探ってみたい。その延長線上に、新天皇徳仁と政治がいかなる関係を取り結ぶのかについても考えてみたい。

実は天皇明仁の退位表明の前後から、平成の天皇をふり返る書物がかなりの数、登場している。しかし、これら天皇論のほとんど全ては、「旅」というような天皇の行動に焦点を絞り、政治は出てくるとしてもほんのわずか、それも天皇の真摯な思いに配慮しない、天皇の崇高な理念の妨害者としてのみ、ほんのエピソード程度にしか出てこない。しかし、これでは、平成の天皇・天皇制を理解することは不可能である。そこで本稿では、あえて、政治と天皇の関係に光をあてて歴史をふり返りたい。

その検討を踏まえた上で、最後に、そもそも天皇、天皇制には一体いかなる害悪があるのかを改めて検討したい。そして、その害悪を減らし、天皇の憲法からの逸脱に歯止めをかけ、憲法の構想する天皇・天皇制に近づけて行くには何が必要か、天皇制度のあるべき将来についても――もちろん、その廃止も含めて――検討してみたい。

さて、「平成」の天皇の30年は、政治と天皇の行動との関係に焦点を合わせて考えると、いくつかの時期に区分できる。第1期は、1989年から94年まで、日本が大国をめざす上で天皇に新たな役割を求め、それに天皇が応じつつ自らの役割を模索した時代である。第2期は、戦後50年の村山談話の出された1995年から2012年まで、「平成」の天皇自身の意思に基づく行動が増え、天皇が自信を深めた時代である。この時期に、昭和天皇期にはない、天皇の行為の肥大化がすすんだ。第3期は、第2次安倍政権が誕生した2012年以降代替わりに至るまで、天皇の権威が増大し、天皇と政治が緊張関係に陥った時代である。

 

一「平成」前期の政治と天皇

 

1 冷戦後の政治の大変貌と天皇の新たな利用

天皇の代によって区切られる年号で時代が特徴付けられることは、とりわけ憲法によって天皇が政治権力を失って以降は、ない。だから、「昭和」から「平成」へ、「平成」から「令和」への代替わりで、時代が変わることなどあり得ない。

ところが、たまたま昭和天皇の死去と「平成」の天皇への代替わりは、世界史の大転換の時と重なっていた。しかも、その時代の転換に際して日本の進路を転換することをねらっていた当時の支配層がその新たな路線の遂行の不可欠の装置として、即位したての新天皇を利用しようとした。その結果、昭和から平成の天皇への代替わりが、政治と天皇の関係、昭和天皇の果たす役割の転換の大きな画期となったのである。

冷戦終焉と日本のグローバル大国への野望

冷戦の終焉、ソ連・東欧の崩壊、中国の市場経済化は、それまでの資本主義市場を大拡大し、アメリカや日本の多国籍企業に活動領域の飛躍的拡大と企業間の激しい競争を生みだした。いまや世界の唯一覇権国となったアメリカは拡大した自由市場秩序の警察官として「自由な」市場の維持・拡大、攪乱者の制裁に乗りだした。

冷戦の終焉は、すでにGDPで世界第2位の地位を占めていた日本の支配層にも新たな願望を生みだした。自由市場秩序維持のための共同の負担を求めるアメリカの要請に応えつつ、日本が政治的にも大国として復活したいという野望である。

大国化に立ちはだかる特殊な困難

しかし、日本の政治・軍事大国化には特殊な困難が横たわっていた。

第一に、日本の多国籍企業の主たる進出先は、中国をはじめとするアジア諸国であり(*2)、日本の大国化もまずはアジアの域内での覇権の確立を目指したが、アジアは、ほかでもなく、戦前日本帝国主義の植民地支配と侵略戦争の対象であったから、日本の大国化を容認してもらうことはきわめて難しかったことである。すでに、東南アジア諸国とは賠償を通じて、一応の決着をつけ、日本商品、資本の進出も行われていた。また日本資本が進出を嘱望していた中国とは日中平和条約で、また韓国とも日韓条約で一応の「戦後処理」はみていたものの、これら諸国が日本の大国化をすんなり認めることはありそうもなかった。

第二に、その延長線上であるが、日本政府はこれら諸国との賠償、戦後処理に際して、過去の植民地支配、侵略を公然と認め、謝罪することを回避し続けてきたことである。それでも「冷戦」期には、東南アジア諸国や韓国は「共産主義の脅威」に立ち向かい開発と経済成長を促進するために日本からの援助を求めて、日本の妥協的な戦後処理を容認した。また中国も対ソ対決との関係から日本との和解に踏み切っていた。しかもこれら諸国は独裁体制下にあったから、そうした「和解」に反対する国民の声や異論は権力により封じ込められていた。

ところが冷戦の終焉は、こうした冷戦下の独裁政権による「凍結」状態を解凍した。韓国での日本軍慰安婦の登場は、それを象徴していた。こうした動きは、日本の大国化に新たな障害物となって立ち現れたのである。

第三に、国内的にも大国化は大きな障害物に直面していた。日本の軍事大国化――その焦点となった自衛隊の海外派兵に対して、社会党、共産党など野党と市民運動が立ちはだかったのである。

「国際貢献」と「謝罪」

こうした障害物を乗りこえて、日本の大国化を推進するために時の政府・支配層主流が採った方針は次の二つであった。

ひとつ、国内的には、日本国民の多数に浸透している、9条への親近感を逆なでしないよう、憲法9条を維持したままで自衛隊の海外出動を実行するという方針であった。その場合、9条の下で積み重ねられてきた、自衛隊維持を正当化するための政府解釈を変更することは難しかったから、当面アメリカの要請に応えるには、海外での武力行使禁止、集団的自衛権行使禁止という自衛隊活動への制約を認めつつ「武力によらない」という限定つきで自衛隊の派兵を実行することに置かれた(*3)。細かい解釈論はここでは省略するが、こうした自衛隊の海外派兵正当化のイデオロギーとして政府が持ち出したのが「国際貢献論」であった。

第二に、対外的に支配層主流が採った方針は、日本の海外進出が戦前のそれとは断絶していることを強調し、それを鮮明にするため日本の大きな負担とならない範囲で「謝罪」めいたことを行い、アジア諸国に日本の大国化を容認してもらうというものであった。外務官僚の次の言は、こうした思いを象徴していた。「日本がアジア外交を展開しようとすると、すぐ大東亜共栄圏の復活とうさんくさく見られる。それは過去の歴史を日本がきちんと謝罪していないからだ」(*4)と。

そんな時に登場したのが、新天皇明仁であった。

(以下は本文を読みください)

一覧ページに戻る