【巻頭言】残された時間はそれほど多くない

――COP25から見えてきたこと

岩佐 茂

いわさ・しげる | 

社会哲学、本誌編集委員


COP25(気候変動枠組み条約第25回締約国会議)で、日本は「化石賞」を2度受賞した。1度目は、梶山弘志経産大臣が、「石炭火力発電など化石燃料の発電所は選択肢として残しておきたい」と発言したときであった。この発言は、国連環境計画(UNEP)がCOP25直前に公表した「排出ギャップレポート 2019」で、日本に、新しい石炭火力発電所の建設をやめて、既存の石炭火力発電所を段階的に廃止するのを促したことに対するコメントである。2度目は、小泉進次郎環境大臣がCOP25の演説で、パリ協定にしたがって立てた目標を「野心的」にひき上げるというCOP25の最大の課題にまったくふれなかったときである。

化石賞は、COP25の期間中、温暖化対策にもっとも消極的な発言や行動をおこなった国に贈られる賞である。不名誉な、恥ずべき賞だ。国際NGOのCAN(気候変動アクション・ネットワーク)が、1999年のCOP5からブラックジョークとして始めたもので、日本は、2013年以降ほぼ毎年のように受賞する常連国になっている。

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COP25の最大の課題は、今世紀末までに気温の上昇を2度未満、できれば1・5度に抑えるのをめざすパリ協定(2015年)の目標に沿って自主的に立てられた国別目標(NDC)を「野心的」に引き上げることにあった。自主目標だけではきわめて不十分なのだ。国連環境計画の先のレポートは、各国の自主目標がすべて達成したとしても、3・2度気温が上昇することになってしまうと訴えている。だが、9月に開かれた国連気候行動サミットでも、COP25でも、日本は、要請されていた2つの課題――目標を引き上げることと、石炭火力発電の推進を止めることにまったく応えようとはしなかった。

COP25は、パリ協定を実現するための運用ルールを決めることを先送りし、「野心的」な目標を立てることに成功しなかった。アントニス・グテーレス国連事務総長は、COP25の成果に「がっかりしている」という声明をだしたのももっともだ。COP25で、114ヵ国が来年のNDCの再提示で引き上げの決意を示し、121ヵ国が2050年までにCO2ゼロにむけた長期戦略の提示に意欲を見せているにもかかわらず、中国、インド、日本、ブラジル(米国は離脱)など、排出量の多い国々が、EUをのぞいて「野心的」な目標を示さなかったからでる。

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COP25をとおして見えてきたことがある。

ひとつは、日本政府が、世界の温暖化の取り組みに明らかに逆行し、足を引っ張っていることである。自民党政権が温暖化問題に消極的であるのは、今に始まったことではない。基本的なスタンスは経済成長を最優先し、温暖化問題は、省エネなどの技術的改善によってできるかぎり努力するというスタンスを取り続けてきた。ここにきて、その姿勢が国際的温暖化問題の取り組みに相反するものであることが明確になった。9月の国連気候行動サミットでも、COP25でも、日本を名指して火力発電に反対するデモがおこなわれたのは象徴的なことである。国際的な「空気を読めない」のである。米国がパリ協定を離脱したことも、「自信」になったのかもしれない。

石炭火力発電から排出されるCO2は、人為的に排出されたCO2の約30%を占める。そこに大ナタをふるわなければ、人為的に排出される温室効果ガスを実質ゼロにするという脱炭素化は実現できないというのが、国際社会の認識である。効率の良い石炭火力発電を建設することが、CO2を減らすことになるといくら力説してみても、むなしい言い訳にしか聞こえない。効率が良いといっても、今のところせいぜい1~2割のCO2の削減であり、脱炭素化の要請に応えるものではないからである。しかも、今、石炭火力発電を建設すれば、2050年過ぎても稼働し、脱炭素化に抗うことになるであろう。

経済成長を最優先に据えた安倍政権は、単価の大きい原発と石炭火力発電を輸出産業の大きな柱として売り込もうとした。後押ししたのは、経産省である。3・11があったにもかかわらず、安倍政権は、原発のプラント輸出を熱心に取り組み、トルコ、ベトナム、リトアニア、ヨルダンなどに原発を売り込んだが、けっきょくいずれも失敗した。インドもうまくいっていない。イギリスでは、日立は自ら撤退した。石炭火力発電については、2016年以降、国内では13基の石炭火力発電が稼働し、24基の建設がめざされている。海外へのプラント輸出も熱心で、インドネシアやインド、ベトナムなどに輸出されている。輸出に軸足をおいた経済成長を最優先しているからである。

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もうひとつ、見えてきたことは、EUや国際NGO・市民社会と米国、日本、中国、インドなどとの違いである。この違いはCOPが始まってからあったが、もう残された時間があまりなくなったここにきて顕在化してきた。

このことにかかわって、高校生のグレタ・トゥンベリさんが面白いことを語っている。彼女は、温暖化問題を議論するだけで、真剣に取り組もうとはしない「大人たち」を批判する。彼女の言う「大人たち」とは、資本主義のもとで経済活動をおこなっている「大人たち」のことである。グレタさんが言おうとしたのは、本人にはその自覚がないかもしれないが、突き詰めれば資本主義批判に通底するであろう。経済成長のために温暖化対策を後回しにするのは、資本主義の経済活動が利潤を最大化し資本を蓄積しようとする資本の論理に則って動いているからである。

だが、同じ資本主義国であっても、EUは地球温暖化対策に積極的であり、米国や日本は消極的である。それはなぜなのか。EUの場合、資本主義に絡めとられない、歴史のなかで積み重ねられてきた生活や文化の伝統が根づいているからであろう。国際的なNGO・市民社会も人々が生活するという視点から、考え、行動している。グレタさんが「若い世代」「未来の世代」から「大人たち」を告発するのも、自分たちやその子供の生存や生活を想いやるからである。よき環境のもとで、安全に人間らしく生活するということを重視するスタンスを生活の論理と呼ぶとすれば、温暖化問題で問題になっているのは、資本の論理と生活の論理のせめぎ合いである。

 

マルクスが『資本論』で「『わが亡きあとに洪水は来たれ!』これが、すべての資本家、資本家国の標語なのである。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである」と語っているのは、温暖化問題にもあてはまる。地球環境や温暖化問題に資本の論理は、「顧慮を払わない」が、「社会(生活の論理――筆者)によって顧慮を強制され」れば、温暖化問題を顧慮せざるをえなくなる。問われているのは、資本主義というシステムそのものである。

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