ドキュメンタリー映画「アイたちの学校」を制作して

髙賛侑

コウ・チャニュウ | 

映画監督、ノンフィクション作家


映画とは、かくも人々の心を結び付けるものか、と改めて実感する。

私は昨年(二〇一九年)、朝鮮学校の歴史と現状を描いた初の長編ドキュメンタリー映画「アイたちの学校」(99分)を制作し、一月から上映活動を開始した。「アイ」とは朝鮮語で「子ども」を意味する。当初、大阪の第七藝術劇場において一週間の予定で始まったのだが、連日立ち見が続出する大盛況となり五週間に延長された。その後、京都シネマの四週間をはじめ、名古屋、広島、東京など計九館に飛び火した。自主上映の希望も続々と寄せられ、北海道から九州まで全国規模に拡大していった。

五月には、思いがけないことに韓国の釜山平和映画祭で開幕上映、ディアスポラ映画祭(仁川市主催)で招請上映に招かれた。

本作品は、日本政府による朝鮮学校差別政策に反対する国内外の世論を喚起する目的で制作を決意したため、当初から韓国語版と英語版の作成を意図していて、九月から海外への発信を開始した。すぐさま米国・ロサンゼルスとサンフランシスコで上映会が行われたのに続き、韓国、ドイツ、カナダ、オーストリア、オーストラリアなどで上映済み、あるいは上映企画進行中の所が相次いでいる。

「朝鮮学校に対して、政府がこれほどひどい差別を行ってきたとは知らず衝撃を受けた」、「民族教育を守るため懸命に闘う人々の姿に感動した」、「厳しい環境のもとでも生き生きと成長する子どもたちの表情がまぶしい」。

こうした感想が続々と寄せられる。一本の映画を軸に、制作、宣伝、上映のために多くの方々が協力して下さり、「ウリハッキョ(私たちの学校)を守ろう」という共通の意志が広く波及していることに深く感謝するばかりである。

観客の皆さんからはよく制作の動機に関する質問を受ける。直接的な動機は二〇一〇年に開始された高校無償化制度において朝鮮高校のみが対象外にされるというあまりにも露骨な民族差別政策に対し、即時是正を求める国内外の世論を喚起するためだった。しかし私の中で朝鮮学校差別問題を世に問いたいという想いを抱いてきた期間は決して短くない。

 

民族教育権は普遍的人権問題

 

私は在日朝鮮人(「韓国」籍・「朝鮮」籍同胞の総称)が最も多く集住する大阪市で生まれたが、民族的な自覚のないまま近所の公立学校に通った。一九五〇年代、六〇年代の頃には根深い差別意識が社会全体に充満しており、私も朝鮮人であることを必死に隠そうとする典型的な民族虚無主義者の一人だった。しかし高校三年の時、尊敬する先輩から初めて祖国や在日朝鮮人の歴史を聞き、その場で朝鮮大学への進学を決意した。その日を真の誕生日と位置付けている。

朝鮮大学で初めて民族教育を受け、卒業後は在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)傘下の在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)で勤務することになった私は、同胞たちの姿にカルチャーショックを受けた。朝鮮人としてのアイデンティティーを誇りとし、なんと活気に満ちた民族運動に尽力されていることか。彼らの姿に触発されながら、改めて痛感したのは、「日本での朝鮮人差別は異常すぎるのではないか」という思いだった。

私は在日朝鮮人の実像を伝える方法として、一九八三年に「サンボン(出逢い)」という隔月刊のミニコミ紙を創刊し、八八年には『ミレ(未来)』という月刊誌に発展した。

在日朝鮮人差別の状況を客観的な視野から把握してみたいと考え、中国・朝鮮族、在米コリアン、在旧ソ連・高麗人の取材を試みた。その結果、明らかになったのは、どの国でも肌の色や文化の違いによる偏見が皆無とは言えないにしても、日本では、法律や制度によって差別を固定化している点で異常性が際立っているということだった。

差別制度の中でも最も重要なのは朝鮮学校に対する差別である。なぜなら民族教育の否定は、民族抹殺の思想に起因する。そのため次に、他の外国人学校が置かれている状況と比較すべく、韓国学校や国際学校(インターナショナルスクール)の取材を行い、インターナショナルスクールも各種学校の資格しか与えられていないため、朝鮮学校と同様の差別に苦しんでいる実態を知ることができた。

韓国学校の場合は、四校の内、二校(現在は一校)が各種学校であるため同様の差別を受けている半面、二校(現在は三校)は一条校(私立学校)の資格を有していた。ところで一条校の資格を取れば、文科省の学習指導要領に基づいて授業を行わなければならない。つまり日本学校と同様のカリキュラムで、同じ教科書を使用しなければならず、母国の言語や歴史、地理などの科目はごく少ない時間に制限されるのが悩みだった。ある教師がつぶやいた言葉が忘れられない。「私立学校である以上、日本の教育制度に従わなければならないのは分かるが、外国人学校に対してそこまで杓子定規にする必要があるのか」。

また大阪などに存在する民族学級にいたっては、わずか週に一回、クラブ活動のように放課後に行われているにすぎず、正規の授業として組み込まれていない。

一連の取材を通じて確認できたのは、朝鮮人をはじめとする外国人の子どもたちの教育において、日本政府は民族的アイデンティティーの育成を無視し、日本人への同化政策を行っているという実態だった。私は、朝鮮学校差別に反対する運動は、朝鮮人だけでなく、全ての外国人の子どもたちの民族教育権を保障する課題に通底する普遍的な人権問題であると確信するにいたった(拙著『国際化時代の民族教育』参照。東方出版)。

 

四・二四阪神教育闘争の真相

 

「アイたちの学校」は、予備知識のない方々にもご覧いただくため、朝鮮学校の現状、歴史、裁判闘争の三部構成にしたが、最も重要視したのは歴史だった。ここで朝鮮学校の苦難に満ちた足跡を振り返ってみたい。

日本は一九一〇年、武力を背景に「韓国併合」を強行し、過酷な植民地統治を行った。教育分野では朝鮮人を天皇の赤子にせんとする皇国臣民化政策を進め、学校で朝鮮語を使用するのさえ禁じた。当然、日本に渡ってきた人々の子どもは民族教育を受ける場がなかった。

一九四五年八月、日本は無条件降伏した。日本の敗戦は朝鮮人にとって祖国解放を意味した。当時、日本にいた朝鮮人は二〇〇万人にのぼっていた。朝鮮人は同年一〇月に早くも在日本朝鮮人連盟(朝連)を結成し、祖国への帰還を急ぐ一方、子どもたちに奪われた母国語を教えるため全国各地に国語講習所を設けた。

GHQ(連合国軍総司令部)は、当初は朝鮮人を「解放民族」と規定していたが、戦後、東西冷戦が進む中で弾圧対象と見なすように方向転換し、四六年には朝鮮人の帰還計画を終了した。日本に残っていた約六〇万人の朝鮮人は、祖国への帰還が長期化する見通しとなったため、国語講習所を体系的な民族教育を実施する朝鮮学校へと発展させていった。

しかしGHQと日本政府は朝鮮学校の存在を許そうとはしなかった。四八年一月、GHQの指令のもとに文部省学校教育局長通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」が都道府県知事宛に出され、大量の警官隊による暴力的な学校閉鎖が強行された。

「子どもたちに民族の言葉や文化を教えるのがなぜいけないのか!」

朝鮮人は学校を死守するために壮絶な闘いに立ち上がった。最も熾烈な闘争が繰り広げられたのは阪神地域だった。朝鮮人は暴行や逮捕を恐れず、知事に学校閉鎖令の撤回を要求した。

この闘いは「四・二四(サ・イサ)阪神教育闘争」と呼ばれ現在も語り継がれているが、私は映画制作の取材を進める過程で、従来ほとんど知られていなかった驚くべき、いや恐るべき真相を知ることができた。

四月二四日、兵庫県庁前には二万人の朝鮮人と彼らを支持する日本人が結集した。代表たちと知事との間で緊迫した交渉が続くさなか、突然MP(米国陸軍憲兵隊)が来てピストルを構えた。金昌植さんはとっさに知事の机の上に上がり、「撃つなら俺撃ってみい!」と叫んだ。たちまち老若男女全員が「撃て! 撃て!」と叫んだため、MPは驚いて逃げ去った。まさに死を覚悟した闘いの末、知事は兵庫県では学校閉鎖令を撤回するという文書に調印した。

朝鮮人は歓喜に包まれて帰路に就いた。が、その夜、事態は急変した。GHQは神戸地区一帯に非常事態宣言を出し、二〇〇〇人の「朝鮮人狩り」を行った。マッカーサーの右腕だったアイケルバーガー中将は二日後に神戸に来るや、朝鮮学校閉鎖令を撤回した文書の取り消しを命じるとともに、治安対策の不備に対して叱責し、米兵が危害を受ける恐れが生じれば「shoot to kill(殺すために撃て)」と言い放った。

四月二六日、大阪では府庁前の公園で三万人の朝鮮人集会が行われた。警官隊と消防隊が周りを取り囲んだ。朝鮮人代表たちが知事室で交渉をしていた時、鈴木栄二警察局長が入ってきて「集会を五分以内に解散せよ」と命じた。

代表たちは集会参加者に「ひとまず今日は解散する」と呼び掛けた。群衆が公園から出ていこうとしたせつな、警官隊が襲い掛かった。群衆の中には多数の女性や子どももいたが、容赦なく警棒で殴り足蹴にした。消防隊は放水を始めた。まともにくらうと体が吹っ飛んだ。公園はたちまち阿鼻叫喚の修羅場と化した。

それだけではない。警官隊が群衆に向かって発砲した。銃弾が金太一>少年の頭部に当たり、わずか一六歳の命が奪われたのである。従来金太一少年は不幸にも威嚇射撃の銃弾を受けたものと伝承されてきた。しかし私は、歴史研究家から示された資料を手にした時、戦慄を覚えた。アイケルバーガー日記である。

彼はその日、神戸から大阪へ駆けつけ、日記に「警官隊は二〇発発砲した」と記していた。すなわち警官隊は群衆に向かって、威嚇射撃ではなく、死傷者が出ることを前提に二〇発以上の水平射撃を行ったのである。この事実は、四・二四と金太一少年の死に関する歴史認識を変えるものと言って過言ではあるまい。

さらにもう一つ、歴史的価値のある資料を入手することができた。二六日の攻防戦を撮影したニュース映像である。公園を埋め尽くす群衆、警官隊の襲撃、運ばれる負傷者、拳銃を構える警官……それらの生々しい映像を目にして体が震える思いがした。

その他、すさまじい映像の数々は、ウリハッキョを守る運動がまさしく「命懸けの闘い」だった事実を映し出している。

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