炎のあとに七五年

――決して忘れず、黙らずに

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早乙女勝元さん(作家)に聞く

 

東京空襲を記録する

 

――ことしは三月一〇日の東京大空襲から七五年、「東京空襲を記録する会」が発足して五〇年になります。

 

早乙女 大きい節目ですね。とくに「東京空襲を記録する会」は、私にとってハードルを上げたという思いがつよいですね。一つは、革新都政に陳情して後世に残す東京大空襲の資料集を都民参加でつくろうと考えたこと。もう一つは、そのために体験記がほしいので、簡単な新書版をどこかで出してほしいという依頼が松浦総三さんからあって、ダメ元で岩波新書にあたったんです。そうしたら「原稿はどこにあるんだ」という。「原稿はこれからです」といったら、あきれた顔をしていました。それでも、もし一カ月で原稿ができるなら、それを持ってきてくれというんです。

取材などもふくめての一カ月ですから、これは大変なことになったなと思いました。夏頃から準備はしていたんですけれど、それからは夜昼休みなしに書き続けて、主要な部分は一カ月で終えました。それを持って行くと、新書編集長の海老原さんが応対してくださって、なんとか採用しようということになりました。

それまでは私みたいなのが岩波でやるという例はあまりなかったんでしょうね。学歴からいって、ほかにいないんじゃないでしょうか。だから出来上がってくるものがどういうものになるか、向こうは不安だったんだろうと思うんです。

でも、採用と決まったら、一週間でゲラが出てきたのには驚きました。

 

――それは早いですね。

 

早乙女 いまみたいなワープロ打ちではありませんから、三〇〇枚からの原稿を活字で一つずつ拾っていくわけでしょう。驚きましたね。ゲラが出て校正という段になって、それでも何だか自分の本のような感じがしなかったですね。これまでそんな高名な出版社にアタックしたことはありませんでしたから。でもハードルは上げれば上げたなりに、無我夢中で走っていけば、なんとか越えられるものですね。そういう自信を得ました。

もう一つの革新都政、美濃部都知事を動かすことも、どうなるか分かりませんけれども、たぶんいけるだろうと僕は踏んでいました。松浦さんによると「それは無理だろうな」という話でしたが、でもきっかけがあったんですよ。

一九七〇年の六月に、葛飾区で講演会がありました。家永三郎先生が「教科書の話」というので講演に来られた。講演の最後に先生は、「これから、教科書から戦争の写真や記述はおそらく減っていくに違いない」といわれたんです。先生は高校生向けの教科書を書いていたんですが、戦争を伝えるには暗すぎるという文部省の意向で、ずいぶん書き直しを求められたのです。そういうこともあって、教科書検定訴訟が始まった。先生は原告ですね。文部省が被告になりました。

そういうときに講演会があった。終わって懇親会があったんですけども、発言してもよろしいということになったので、私は、「原爆の写真や記事はもっともっと教科書に載せてください。でももう一つ載せてもらいたいものがある。それは無差別爆撃の東京の資料です」といったら、先生もさすがに歴史家ですから、よく知ってはいましたけれど、私のほうがもっと詳しかったんですね。こちらは執念深く資料を集めていましたから。「いまのうちなんとかしないとねえ」とおっしゃったのが懇親会を終えるときの先生の、ちょっと悲痛な感じのお言葉でした。

私はその夜のうちに、美濃部さんに陳情してみようと都知事への要望書を書いたんです。それで、松浦さんを誘って東京教育大の家永先生の研究室へ行きました。そうしたら先生もびっくりした顔でね、一週間もたってないんですから。でも要望書をご覧になって、チェックしてくださいました。「ここは少しオーバーな表現だから、もうちょっと普通に」とか。

それで次の要望書は松浦さんが担当し、私はその内容で、東京空襲で生き残った文化関係の方々、戦後まだ二五年ですから、皆さんお元気でいろんな人がいっぱいいたんですね。その人たちの家を回って歩いて、呼びかけ人になってもらうという役を担当しました。そのころの私は暇でしたから、電話で連絡して、あるいは直接お訪ねしたりして、めったに会えないような偉い人のところへも出かけていきました。そうしたら、どの方も非常に好意的で、しかも、そこから紹介してもらったりしました。

それで、陳情書を持って、都知事に会う段になりました。八月五日でした。東京都庁は有楽町にあったんですが、ロビーに集まった八人ぐらいで、この日を「東京空襲を記録する会」の発足日としようということになりました。代表は有馬頼義さん。お父さんは近衛内閣の農林大臣ですね。有馬さんは財閥ですから、たぶん都議会でも反対する人は出ないだろうと踏んだんですけれど、代表になってくれました。

都知事は足どりも軽く我々の前に現れて、一発で快諾です。「革新都政の使命にかけても、その記録はあとに残すべきですね」とおっしゃったように思います。

ただ、こちらが考えていたのと違ったのは、「あなた方が主体的におまとめください」というのです。僕は東京都が中心になって作業をすすめて、こちらは協力体制である一定期間、東京都へ通って……と踏んでいた。ところが「いやいや、あなたたちが主体的にやりなさい。東京都はできる限りの応援をするから」というのです。

それからにわかに財団法人をつくりました。予算は個人ではもらえないんで、財団法人をつくって新宿に事務所を構え、それから3年以上かかりました。スタッフは七、八人。松浦さんが元『改造』の編集者だったから、その関係でいろいろな人を集めて編集体制をつくり、三年がかりでつくりました。都民の体験記が一、二巻に収まり、それで全五巻です。いまでも神保町で古本で出ることがありますけれど、一万円以下では売っていません。

これが出来あがってきたときは、私は人生の仕事の半分が終わったという気がしました。

ところがその直後から、空襲があったのは東京ばかりじゃないよ、という声が全国的に出てきて、ものすごい話題になったんです。美濃部革新都政がそういう仕事までするということが各紙で大きく取り上げられて、それで空襲を受けた諸都市の人たちがそれぞれ自分たちの力量に応じて記録する会をつくったんです。いろいろな作り方がありました。そこから、『日本の空襲』全10巻をまとめようということで、私が知り合いの編集者を頼って三省堂に出かけていって、何回か会談を持ちオーケーしてくれました。

『日本の空襲』は六年かかりました。結局、『東京空襲』と『日本の空襲』で一〇年使ってしまったんですね。それが「東京空襲を記録する会」五〇年間の冒頭です。

 

――五分の一、二〇パーセントを費やしたわけですね。

 

早乙女 そこから同類傾向の仕事がどんどん増えてきて、新潮社でさえも大河小説を書いてくれといってきました。何巻でもいいというんです。住井すゑさんの『橋のない川』があったせいでしょうね。それに続く大河小説をやってみたらどうかと、編集長がおっしゃるものですから、それも引き受けて、五巻まではスムーズにいったんです。

 

――『わが街角』ですね。

 

初めての小説が直木賞候補

 

早乙女 でも、あまりおもしろくはなかったんだろうな。五巻でひとまず区切りをつけて、あとは単発でいこうということになりました。単発は「赤旗」に連載したんです。五巻のあとの話ということで、それでも、七〇〇枚、八〇〇枚ぐらい書いたでしょうね。そのあたりから、ストーリーを動かすのがおもしろくなってしまって、それを続けているうちに、だんだんと真実から遠ざかっていっているかもしれないと思うようになった。

岩波新書はノンフィクションですから、事実関係だけで書いた初めてのレポートです。それに興味が出てきて、それからは小説はちょっとお休みになってしまったんです。

今回、出版をお願いした『美しい橋』というのは、おそらく初めて小説というものを意識して書いたものですね。稚拙ですけれども、いま読んでみると、どこかに真実めいたものがあるような気がしています。そのあと何冊か長編小説を書きましたけれども、やはり一番最初に書いたのが決してうまくはないけれども、何か私らしい感じかなあという気がしています。

最初の本は自分史ですけれども、それが単行本になって出たときのこと、ある出会いがありました。濱本浩という作家を知っていますか。

 

――ええ、お名前は。

 

早乙女 当時、浅草を舞台にして書いている流行作家です。直木賞の選考委員だったかどうか分かりませんし、じっさいは濱本さんの一票であったかもしれないけれど、「下町の故郷」が候補のまた候補ぐらいに入れてもらえた。それで、濱本さんが浅草のフジキッチンへ招いてくれましてね。「君は書けるよ。君の未来に乾杯だ」といわれたことが私の最初の励みになりました。おだてに乗せられたんだと、いまにして思いますけども、でもそのひと声がなかったらどうなっていたか。戦後まもなくの時期で、紙が配給制ですから、めったに単行本なんか出せるものではなかったんです。

後に吉村昭さんと対談する機会がありましたけれども、そのとき、「あなたは早くから本が出せてよかったね。僕はうらやましくてしようがなかったよ」といわれるから、「本が早く出るか遅く出るかが問題じゃなくて、中身が問題じゃないですか」っていったんです。尊敬する吉村さんとそういって笑いましたね。

たしかに出るのが早かった人は何人か当時いたと思うんです。単行本で覚えているのは足柄定之氏の『鉄路のひびき』、それから山田うた子さんの『生きる』かな、理論社から出していましたね。職場を描く作家たち。ほとんど一冊目で終わってますね。一冊目のあと、次々とというわけにはいかなかったんですね。それらの職場作家の面倒を見ていたのが野間宏さんです。野間さんは僕、前から知っていました。というのは、『葦』の編集部にいたことがあるものですから。野間さんの家の近くに事務所があって、よくしてくださいました。「人民文学」だ、「新日本文学」だという分かれ道がありました。僕はどちらかというと「人民文学」のほうでしたが、結局は、豊田正子の評価をめぐって離れました。

 

――共産党の五〇年分裂問題も絡んでいましたものね。

 

早乙女 私も人ごとじゃありませんでした。兄と姉が二人ともレッドパージにひっかかったんです。兄は教師で、墨田区の教員組合をつくろうとしてひっかかって、姉は活動家ではなかったんだけれども、日本鋼管の本社タイピストの職を奪われました。

私の親父はとんでもない遊び人なものですから、母親が死に物狂い、といってもいいほど、朝から晩まで働いてやっと生活できていました。子どもが四人いて、私が一番年下。一番上が教師になった兄です。その兄が兵隊から帰ってきて教職に就いたとたんのレッドパージでした。そういうことを見ていましたから、社会的な感覚は、そのころから並以上だったかもしれません。

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