新型コロナ禍に古関裕而と西條八十を考える

新船海三郎

しんふね かいさぶろう | 文芸評論家、本誌編集委員



一億の民が流されている――などといえば大げさだし正確ではなかろう。しかし、たかが「要請」でしかないのに、一斉に小中高校が休校になる。都内に入ることに自粛を求められると、銀座も渋谷もみごとなほどに人通りが絶える。

もちろん、新コロナウイルスの得体の知れない恐ろしさはある。だから、必要な感染防止にはつとめている。不要不急の外出も見合わせている。爆発的感染のためにロックダウン(都市封鎖)になるのを避けるためといわれれば、そうだと思う。にもかかわらず、何とはない嫌な気持ちが胸中を去らないのである。

たとえばそれは、何かを慮ったような政府の対応の遅れにある。東京オリンピック・パラリンピックの「延期」が決まった瞬間、発表する患者数がぐんと増えたような疑念にもよっている。残念ながらこの国の総理の発言に、信頼を保てないことも大きい。都知事も同様である。また、陰性になっても出社に及ばずと自宅待機を命じられる、「ばい菌」扱いされる、厳重にチェックして開催したK1はまるで「非国民」のように指弾された……など、一波が万波のようにひろがっていることにもよる。韓国・朝鮮、中国人への民族差別発言や嫌がらせが蔓延していることにも心がざわつく。

国民一人ひとりが自分で考えて判断するようには情報が提供されず、なんだか新コロナを利用して操作されている感が拭えないのである。毎朝のテレビ・ラジオは、今朝も〝日本中〟が注目しているこのニュースから、と前日の陽性患者の〝発生数〟を伝える。目にしながら〝流されてはいけない〟と言い聞かせる。

 


 

私は戦後生まれだから、その空気は知るよしもない。だが、少年期にそれを体験した作家の早乙女勝元さんは、本誌のインタビューで、「こういうときに政府がとんでもない戒厳令みたいなものを出したとすれば容易にひっかかってしまうんです。ということが戦争の始まりの時期に入ると思います」と語っている。私は早乙女さんの戦争体験者、作家としての危惧にリアリティをひしと感じる。

流れが当然のようになったあとでは、抵抗はむずかしい。

NHKテレビの朝ドラ「エール」が始まった。古関裕而の物語だが、彼が軍歌のヒットメーカーだったことは知る人ぞ知る。レコード売上でみると、「勝ってくるぞと勇ましく……」の「露営の歌」が60万枚とも100万枚ともいわれ、「若い血潮の予科練の……」の「若鷲の歌」が23万枚、「あゝ、あの顔で、あの声で……」の「暁に祈る」が4万枚である。

率先して作ったわけではない。

「それでも軍歌や時局歌、ご当地ソングの類が、次から次へと私のところに依頼されてきた。かつて「紺碧の空」(注、早稲田大学応援歌)を手がけた男だから、勢いの上がる曲は得意だろうというのである。私は仕事なのだとわり切って引き受け、時勢の流れにまかせていた」(『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』)

軍歌のヒットメーカーとはいえ、古関の作った軍歌で巷間ひろく歌われたのは先の3曲で、いずれも短調であり、哀調ただようものであったことは記憶しておきたい。それでも戦後は「戦犯」追及を覚悟し、身を縮めて戦時下の自己のありようを反省した。それは真摯なものであったろうが、気持ちが薄れると自衛隊の歌なども手がけているから、この人に思想を問うのは無理な気もする。むしろ、身と心に添った曲調の問題だろう。

「時勢の流れにまかせ」ることは、我知らず自分を自分ではない遠くへ運び込んでいくものであることを、今さらのように思う。しかし、その古関でさえ、

「この歌は私にとってもいやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。今さら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、まぼろしの戦時歌謡としてソッとしてある」

と自伝で嫌悪感を隠さなかった曲がある。「比島決戦の歌」である。

「決戦かがやく亜細亜の曙/命惜しまぬ 若桜/いま咲き競ふフィリツピン

いざ来いニミツツ、マツカーサー/出てくりや地獄へ逆落とし」

 


 

この歌の作詞は西條八十である。二人の「名誉」のために書き添えておけば、「いざ来い……」のくだりは、もとは「レイテは地獄の三丁目」だったらしい。似たり寄ったりに思うが、大本営陸軍報道部の将校が、自分が小さいころ歌った「水師営の会見」には敵将ステッセルの名が入っていて印象に残っている、ぜひ、ニミッツ、マッカッサーの名前を入れてもらいたい、と言いだした。押し問答の末、西條が折れ、書き直したといわれる。ふたりはコンビで前述した「若鷲の歌」もつくっている。

ちなみに、西條が書いた軍歌には、紹介した2曲のほか「憧れの荒鷲」「荒鷲慕いて」「総進軍の鐘は鳴る」「打倒米英」「壮烈特別攻撃隊」「空の軍神」「陥としたぞシンガポール」「同期の桜」「戦友の唄(二輪の桜)」「さくら進軍」「大航空の歌」「決戦の大空へ」「乙女の戦士」「そうだその意気」「祖国の護り」「学徒進軍歌」「ああ梅林中尉」などがある。このうち、ヒットしたといえるのは「若鷲の歌」にくわえて「同期の桜」ぐらいである。

それに比べて、戦時下にもひろく歌われたのは、「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」「支那の夜」「純情二重奏」「蘇州夜曲」など、いわば軟派ものばかりである。そして、この軟派が災いして戦後、西條は早稲田大学の教壇を追われることになる。「文学部の中心をなす大教授が、『愛染かつら』や軍歌を作ったような人物ではダメだ」といわれるのだが、西條追放の動きは戦時下からあり、軍歌は戦後的に受け容れやすく付け加えられたのだろうとみられている。

とはいえ、西條が「戦犯追放者名簿」に最後まで残った一人であることはまちがいない。なぜ逃れたのかは、「ロツキイ山から 日本の富士へ 雲が握手の手を伸ばす……」という「亜米利加音頭」を作っていたとか、戦犯審査長の牧野英一が弁護したとか、同時に名前のあがった西郷信綱が高齢で許され、そのおかげで西條も問題にされなかった、など諸説あるもののいまだに分からないままである。

子息の西條八束(陸水学)はこう書いている。

「思想的には、父はやはり明治に生まれ育ってきた日本の男、そのもので会ったと思う。教え子が戦場に行っているのを案ずる、その一方で、『若鷲の歌』に代表される軍歌を書き、戦争に協力したことに疑問はなかったようだ。それがやむを得なかったものとして、父はよく『馬のションベン、渡し船』という言葉を引用した」(「江戸の昔、人馬相乗りの渡し船では、川を渡る間は、馬の排尿の飛沫もじっと忍ぶしかなかった」ということによる――八束の妻紀子の註による)

わが国初の歌のついた童謡「かなりあ」から出発し、フランスの漂泊の詩人アルチュール・ランボーの研究をもっぱらとし、軍歌もあるが、「東京行進曲」から「青い山脈」「王将」まで、人々の口の端にのぼる数多の曲を書いてきた。西條八十のその歩みは単純ではない。ではないが、この詩人の歌――歌謡曲には、まちがいなく日本人、それも庶民の心のありようが映されていると思う。

古関裕而の短調がかもし出す哀調と西條八十の通俗は、日本人の心性と響き合い、ある意味でそれを作ってきたともいえる。それが、彼ら二人だけではなく、多くの人々に「時勢の流れにまかせ」「馬のションベン渡し船」を肯定させることになったようにも思える。

新型コロナ騒ぎのなかでそれを見つめることは、無意味ではないように思うが、さて。

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