歴史事実と歴史認識(下)

「軍慰安婦」、ファシズム、帝国意識などから考える

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宮地正人・吉見義明

公娼制と軍慰安施設の違い

 

宮地 2019年の『買春する帝国』ですが、これも大変おもしろく読ませてもらいました。先ほども話題になった名誉毀損の裁判のなかで、もっと論点を明確にしなければいけないと感じたのが出発点ではないかとの印象を持ちました。公娼制と軍慰安施設というものをどこではっきりと区別するかということを、日本人に理解させなければいけないという問題ですね。公娼制は、国際法では奴隷制度だと議論が展開していく要素がこの裁判のなかにあって、公娼制と「従軍慰安婦」問題をどこが同じでどこが違うかを、歴史修正主義者の攻撃をきちんと学問的に批判するためにも、自分自身で構築しなければいけないということが一つの要因になったのではないかというのがぼくの印象でした。

非常にうまい言い方をしているのは、プロローグで、性売公認か、性売公設かと、短い言葉で質の差を指摘しています。公娼制と「軍慰安婦」をきれいに分けるためには、公娼制そのものが明治からどうつくられたかということを皆に理解してもらわなければいけないし、吉見さん自身としてもこれまでの膨大な研究をまとめなければなりません。ぼくなんか、こんな労力を使う力量もないし根気もないのだけれど、膨大にある資料を廃娼運動から全部見たなと、これは本当に感心します。あなたのお持ちになっている研究者の資質だと思いました。

娼妓解放令で吉原に4150人いた娼妓のうち3500人が自発的に解放を要求した。それに対して遊廓が貸座敷に転身することによって営業を続けた。これは、江戸時代の公娼、遊女の待遇にもかかわってぼくはかなり気になっている。近代が公娼制で、それ以前はそうじゃないという議論にぼくは賛成ではないからです。

いわれている通り、軍備拡大によって遊廓の開設が増大したわけで、これは日本近代の非常に大きい問題です。これに対して、キリスト教者が廃娼運動をすすめた。女性の自立とか人権の基本は廃娼運動だと感じさせられたのは群馬県の廃娼運動です。あそこは高崎15連隊ができましたが、公娼制でなくて私娼と酌婦として存在しました。湯浅治郎という、あとで同志社のトップになりますが、彼は県会議員として廃娼運動に取り組みました。

廃娼運動によって1899年に5万2400人いたのが1902年には3万8000人に減った。戦前の日本のキリスト教社会主義を見る場合にこれは大事だと思いました。しかし軍は軍で別の方向に行きます。台湾征服戦争のときに出てくる。台湾では公娼制とは別に守備隊のために性的行為だけを目的として検梅し、この検梅は隊付軍医がやるのですが、太平洋戦争と同じです。酒や食事は出さないで安く短時間で済ませるための軍用の性的施設をつくった。台湾ではあとでなくなるけれども、公認の私娼制をやったのが「軍慰安婦」の原点ではないかと指摘されています。

日中戦争が始まるときには、これだけきれいに変わるんだなあと思わされましたが、1938年2月の国家総動員法の関係で職業紹介法が変わり、民間の紹介業者がすべてなくなったのに、「ただし芸妓、酌婦、そのほかに類するものは本法を適用しない」ということが決められる。これはなるほどと教えられました。これは京大の永井和氏が発見したものとなっていますが、法的には1937年9月、野戦酒保規程が改正されて、「新たに野戦酒保においては必要な慰安施設をなすことを得る」という規定がなされた。ですから日中戦争が始まった直後に、兵站部の性格が変わってくるのですね。

先ほどもう少し議論したいと思っていた関特演(関東軍特種演習、1941年7月)では、関東軍は「慰安婦」を2万人集めようとしたといわれますが、実際には朝鮮から3000人の女性が満州に連れてこられた。これが事実ですね。

1942年から業者の選定も場所の許可も陸軍が行うようになります。直接陸軍省が介入してくるわけですね。これだけ広がっていたのかと改めて教えられたのは、インド洋だとニコバル諸島やアンダマン諸島まで設けられている。ビルマではミッチナー、中国雲南省に近い激戦の地です。その前線近くに3軒の慰安所があって、ここにある二つは朝鮮人の「慰安婦」41人、もう一軒は広東から連れてこられた中国人21名がいる慰安所だった。こんな最前線近いところまで軍はつくったということですね。マニラでは、1944年2月の段階で17軒の軍慰安所があり、これとは別に将校のクラブがある。これは中国でもまったく同じですね。

あなたはこの著書で、国内の公娼制と軍慰安施設とがどう違うのかについて、ピシッといっていますね。要するに軍が行うか、警察が行うか、だと。しかし、前借金という金で縛り、検梅制度を実施し、選客(客を選ぶ)の自由がなく、性売を拒否できなくさせる、これは共通している。貸座敷の場合は、女性の募集や管理、施設の設置や物資の供給に警察がかかわることはなかったが、慰安所の場合には軍が全面的にかかわっている。慰安所は性買以外の男性の遊興はなく、軍人・軍属専用で民間人には利用させない。

戦地、占領地では、軍が直接女性を募集したり、ときには暴力を用いて連行していたのは公娼制のカテゴリーをはるかに超えますし、日本人女性だけではなく、朝鮮、台湾、中国人の女性が軍用船によって東南アジアや太平洋の各地に移送されていることも公娼制では考えられもしない事態でした。

国際法は女性や児童売買を禁止していますが、国際法が想定したのは、民間人による人身売買を国家が規制する、取り締まることでした。国家自体が直接、女性、児童の人身売買にかかわるということは、それこそ想定外のことだった。

「軍慰安婦」や性奴隷と呼ぶことに反対して公娼制じゃないかと繰り返しいう人たちに対して、あなたは、ここが共通するが、ここはまったく違うときわめてクリアにしている。「慰安婦」問題の岩波新書と今回の本は、たたかう人たちの大きな武器です。あなたが提供してくれたわけです。

少し伺いたいのは、兵站部と一括していわれていますが、陸軍では兵站部というのは憲兵と考えていいのかという問題。海軍では憲兵はいたのでしょうか。そして、各地の慰安所の具体的管理はだれがやっていたか、業者だと思うのですが、憲兵自体がやる場合があったのかどうか。

 

兵站部と憲兵の仕事

 

吉見 評価していただき、ありがとうございます。お答えする前に一言追加しますと、娼妓貸座敷制度をつくり、維持した国家の責任も問われるべきだと思います。

ご質問についてですが、慰安所になる建物を接収したり、改造したり、慰安所規則をつくったりというのは、基本的には兵站部の仕事ですね。それ以外に憲兵がいるんですが、連隊、大隊ぐらいまでは慰安所をほぼつくっていました。そこには後方参謀と呼ばれる経理関係の将校がいて、それが担当する。そして憲兵に協力を求める。女性を登録したり名簿をつくったりというのは兵站部の仕事になるのではないでしょうか。

海軍の資料は少ないのであまり分からないのですが、第一次上海事変のころは海軍陸戦隊がいるんですね。だから陸戦隊が担当する。そこに主計将校などもいて、それがつくる。戦争が拡大していったあと、1942年ぐらいには、海軍の特別警察隊、特警隊というのができて、海軍担任地域では憲兵のような仕事をするわけです。海軍でも憲兵が事実上できるということでしょう。海軍の場合もやはり設営などは主計将校がやるわけです。中曽根康弘元総理は、「主計将校のときおれはつくってやった」と自慢話をしていますが、そういうことになるんじゃないかと思います。

もう一つ、資料を読んでいて思ったのは、海軍の特警隊が女性を直接集めるところまでやるのはまずいので、軍政機関ができます。民生部です。民生部の警察にやらせる。

宮地 そうか、あれが関与するのか。

吉見 ええ。そういうケースもあったようです。ただ、本当に海軍の資料は少ないのでよく分からないのです。もう一つは、直営と専用、専用とは軍が管理するけれども、基本的な運営は業者にやらせるものです。その違いがどこにあるのかというのはなかなか難しいのですが、たまたまぼくが前につくった資料集に説明したのがあります。スラウェシ島(セレベス島)にいた陸軍の第二軍司令部がGHQに対する調査報告で非常に詳しく述べたものです。そのなかにパレパレ警備隊というのがあります。これは責任者が陸軍中佐で、部隊において経営すると書かれています。ただ従業員として現地人の男性一人を雇っているので、軍の直営で業者をおかないで、細かいことはその現地人の男性にやらせるということでしょう。

海軍のほうも、ケンダリー海軍部隊、責任者は海軍大尉と書かれています。「糧食、衣服、寝具、食器類、水道料、使用人の給料等は一切部隊負担。軍隊同様の給養を成す」と。

「ケンダリーは海軍少尉、アモイトは海軍少尉、バウバウは派遣隊長希望者を募集し経営せり」と書かれているので、これも募集と経営を軍がやっているということですね。ケンダリーの海軍部隊はケンダリー、アモイト、バウバウという三つのところに慰安所を設営しているのですが、そのうち二つは現地人の男性一人を従業員として雇っています。

宮地 業者じゃないんだ。

吉見 ええ。その人に細かいことをやらせるということですね。それが直営で、指名された業者が経営する専用との違いなのかと思います。直営というのはそんなに多くないと思います。

宮地 じゃあ、業者はかなり危険なところまで行くんだ。

吉見 そうですね。それから関特演のことですが、これもよく分からないんですが、『従軍慰安婦』を書かれた千田夏光さんは関東軍で実際にこれを担当した軍曹から手紙をもらっていて、それによると、実際に送られてきた朝鮮人は3000人ぐらいだった、それを満州の各地区に配分したといっています。1万か2万集めようとしたけれども、それだけ集めるのは無理だったということでしょう。

宮地 あるいは関特演自身がソ連を攻撃するのは当分やめるということになって、当初の目的とかなり違ってきたからそれほど必要なくなったのかもしれない。

吉見 3000人集めるといっても、簡単なことではないですね。

宮地 金をどうしたのか、ぼくはいちばん気になる。

吉見 たぶん総督府が絡んでいると思うんです。あるいは朝鮮軍も絡んでいるかもしれません。それで何道に何名というふうに配分して、警察なり憲兵なりが担当でついて業者を選んで集めさせたと推測されるのですが、そういう資料は出てきていません。

ただ日本の国内では、1938年に広東省にいた第21軍司令部の将校が内務省を訪ねて、これこれの数を集めたいと頼むと、警保局が各府県に割り振り、業者もそこの警察部の責任で選ばせて実際に400名を送ったという事実がありますから、同じように朝鮮半島でもしたのではないかと思います。

宮地 そこで問題になるのは金をどうしたか。ご存じのように、戦時体制になって機密費は膨大にあり、しかも使途を明らかにしなくてよくなってしまったから、相当の金を持っていた。貸座敷を日本本土でやるわけではないのだから、保証してくれないと人も集まらないし、業者だってくっついていかないでしょう。そのいちばん大事なところの資料がない。

吉見 推測としては、それだけのお金が名目はともあれ、あらかじめ渡されないと無理ですよね

(以下は本文をお読みください)

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