喉元を過ぎさせないために

藤原辰史

ふじはら・たつし | 

1976年生まれ、農業思想史、京都大学准教授。著書に『給食の歴史』(岩波新書)など。


非常事態宣言や外出禁止令が解除され、新聞やテレビに明るい記事が目立つようになった。教室に生徒たちが戻ってきた。先生と談笑した。夜には花火が上がった。お店が再開した。ブルーインパルスが飛んだ。ドイツではワーグナーのトリスタンとイゾルデが距離を取った歌手たちによって上演された。フランスでは適正な距離をとった俳優たちがスタジオに戻りテレビドラマの撮影が始まった。スペインでは海岸が解放された。大阪のライブハウスでは透明のカーテンの向こうで歌手がロックを歌った。マスクが安く売られるようになった。

楽観したい。前を向きたい。嫌なことは起こらない。神様はそんなに無慈悲ではない。そう思うのは人間の性質である。第二波や第三波の可能性を否定する人が少ないにもかかわらず、明るい未来をみたいと考える人たちが、新聞記事を明るくし、テレビに笑顔を戻している。そう、世界史の住人たちのモットーはずっとこうだった。喉元過ぎれば忘れる。

昨年の冬から今年の初夏にかけて、世界中の人々の喉元は痛みに痛んだ。夫の死、妻の死、父の死、母の死。悲しみに震えていた喉はたくさんあったはずだ。だが、当事者ではなかった人たちは、喉元の界面性も高く、みんな笑顔を取り戻している。しかし、それと同時に大事なことまでもツルツルと飲み込んでいないだろうか。

 


 

世界史を振り返ってみると、とくに現代日本人の喉元の界面は桁違いに活性化されている。福島第一原発事故跡地が「アンダーコントロール」といった首相は、日本列島の喉元を、いつにも増して強靭な不感システムに変えようとした。チッソの社長も、水俣病の「救済は終わった」と述べて、同じように喉元に鋼鉄のシールドを舗装してしまった。メディアは暴力で傷ついた人の写真を映さない。ショックを受けるような写真をぼやかす。難民申請者たちのハンガーストライキを、不当な監禁を、自殺を、数少ない優れたジャーナリストの例外を除き、映像に出したがらない。かつて、退却を「転進」、全滅を「玉砕」と呼び替えて、国民のショックを和らげようとしてきた大本営さながら、新聞やテレビは、抵抗を「暴動」と読み替えてみる。こうして「なかったことにする」という日本の得意技は、幾重にもその技術を磨いてきたのである。

パワハラにせよ、戦争にせよ、公害にせよ、加害者はしばしば被害者よりも出来事を忘れる。だから、私は喉元に通り過ぎなかったものによって喉を痛めている人たちの側から歴史を研究したいし、弛緩した今こそ、そのような本を読みたい。そして、喉元を通させないとバリケードを築きたいと願っている人たちは、このような本を読みながら、決まり文句に陥らない言葉を探し、磨いていかなけれれば、むしろ人びとが耳をふさぎ、かえって忘却の方に加担してしまう。

福島第一原発事故を、世間は忘れようとしている。2011年10月11日の収束作業にあたる作業員のツィッターを私たちは忘れようとしている。「切断に使う道具は火花出せないから通常のグラインダーなんか使えない」「とりあえず爆発しないで良かったでし。にしても高線量下の作業だから被曝はいっぱいだけど……」(ハッピー『福島第一原発事故収束作業日記』河出文庫、2015年)。ものの落下事故も多い。誰も責任を取らない。「東電は元請け企業に、元請け企業は下請け企業に、下請け企業は作業員に責任を転嫁しちゃいけないと思うんだ」(同、2012年2月9日)。今も災害の多い日本列島で、このような危険な作業をずっと労働者たちは続けているのに、どうしてテレビは取り上げないのか。まさか視聴率が取れないという軽薄な理由か。もしや、この現実を飲みこんだ人が多いというのか。

ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)で述べていたように、チリのアジェンデ政権が倒れた後も、アメリカのハリケーンの後も、ソ連が崩壊した後も、アメリカの新自由主義者たちがやってきて、自分たちの利益を生みやすい「復興」を、時にはCIAによる露骨な暴力を使いつつ、果たしてしまった。収束なり崩壊なりが終焉である、と人びとは思いたがる。しかし、それは、新たな従属の始まりだった、ということをクラインは教えている。新型コロナウイルスはイベントではない。災厄が収束して、終わりではない。庶民の苦しみはここから始まるのだ。

速水融の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006年)は、人びとの喉元を、4000万人の人びとがなくなった悲劇が滑り台のように消え去った百年前のインフルエンザ・パンデミックの痛みを思い起こさせてくれる。それは、次のような事実だ。インフルエンザは、すでに粉塵を吸っていた炭鉱や鉱山の労働者に通常の人よりも強く攻撃をしたこと。インフルエンザは、宗主国よりも、その植民地で致死率が高かったこと。日本の内地よりも、朝鮮や台湾や樺太の致死率が高かったこと。つまり、感染症は、平等な病気ではない、という当たり前の事実さえ、私たちの強靭かつ不感症の喉は、ゴクリと飲んできたのである。

 


 

では、パンデミックの第一派がひとまず収束に向かいつつあるいま、忘れてはならないものは何だろうか。

第一に、繰り返し指摘されているように、新型コロナウイルスは、人種主義的に、経済構造的に、「下」なり「劣」だと決めつけられてきた人びとこそが感染率が高かったこと。現在のアメリカ全土で起こっている黒人差別構造に対する異議申し立てのデモの背景のひとつには、新型コロナウイルスの感染拡大のあいだ、ステイホームできなかった人たちが非白人層であったことも起因しているだろう。

そしていま、ヨーロッパで農業労働者として雇われているルーマニア人たちが異議申し立てをしている。特別に入国が許されている国もあるが、許された場所では、労働条件が過酷であること。農業は三密ではないから感染のリスクが少ないね、ということを聞いたことがあるが、どうして、農業というと、知識を相対的に持っている人たちまでも、広い大地の下でトラクターを動かしているようなイメージしか湧かないのか不思議でならない。野菜生産の場合、かなりのものが温室栽培、つまりガラスに囲まれているか、ビニールに囲まれているかである。湿気が多く、喚起も悪く、暑い中で、たくさんの人たちが働くのに、どうして新型コロナウイルス感染の危険性が少ないと考えられるのだろうか。

つまり、今回の危機は、これまでの危機の継続かつ増幅でしかない、ということを忘れてはならない。

第二に、このような危機的状況の中で、テレワークができる層を支えた人たちが誰だったか、である。アメリカでは、精肉処理場で多くの感染者と死者が出たにもかかわらず、トランプは工場を止めるなと命令した。デイヴィッド・グレーバーの言葉を借りれば、眺めいいオフィスでSNSに興じている会社役員ではなく、普段気にしもせず、「なかったことにしている」ところこそが、私たちの生活を支えていたことに気づいた。清掃、介護、医療、保育、接客、農業、漁業などのいわゆるエッセンシャルワークに、どうして私たちの前の世代の人たちや、私たちはずっと賃金をケチり続けても何も思わなかったのだろうか。日本の与党は、日本の上層の企業が経済成長で儲かり、それのおこぼれが国全体に広まることを期待していたが、その夢はコロナと共に完全に去った(すでにほとんど去っていたが)。社会構造としても国家の愚策である。エッセンシャルワーカーの賃金が低いままでは、もう今後の危機に柔軟に対応できないのである。

第三に、あまりにも自然の乱開発をしすぎたことである。日本はその代表選手である。密林を開発して、パーム油のプランテーションを作り、それを自然の恵みとか、植物性とか「エコロジー」的宣伝をして、チョコレートやアイスクリームやシャンプーを生産してきた日本は、どうして今回のパンデミックの責任を感じないのだろうか。日本もまた、上記のような乱開発の主体となって、生物の生存空間を食い荒らしてきた。その結果、永遠に人間と接しなくてもよかったはずの野生動物と人間は接することになった。野生動物が持つ菌やウイルスとのコンタクトゾーンが増えたのである。もう乱開発から足を洗わなければ、次のパンデミックまでの時間はかなり短くなるに違いない。「持続可能性」をうたう「見かけのエコロジー」ではなく、自然を破壊しない経済を求める真のエコロジーを求めなければならない。

第四に、第三と関連して、空気が改善し、水質がきれいになり、交通事故が驚異的な現象を示した。世界的に大都市の自家用車はそろそろ使用台数の都会で制限をかけないと、大気汚染によって肺炎で亡くなる人たちがむしろ今度どんどん増えていくことになる。

第五に、パンデミックが終息しても、危機は続行すること。上記のようにステイホームできなかった職種の人びと、解雇された人びと、内定の取り消しにあった大学生、ひとり親世帯、これらの人びとの危機は、新型コロナウイルスに特効薬なりワクチンなりができたという喜びにかき消されて忘れてはならない。社会的に弱い立場にある人から、生命の危機にさらされるという構造は、今回のパンデミックで発明されたわけではない。ずっとそれは変わらずに存在していた構造だった。今回の危機でその構造の周りにかかっていた霧が晴れたにすぎない。

 

人間は苦痛とともに生きている以上、もちろん、忘れる能力は必要不可欠だ。そうやって精神衛生を保ってきた。しかし、喉元を絶対に通らない過去もある。飲み込めない過去は、むしろきちんと記憶し、記録して、後世まで語り継がなければならない。なぜならほとんどの場合、飲み込めない側が加害者ではなく被害者だからだ。にもかかわらず、今、歴史を軽視する為政者たちは、鋼鉄の喉元を自分の体内に建設するだけではなく、官僚機構にも「記録しない」ことを流行させている。そんな喉に感性と知性を呼び起こすために、私たちは、高速化する喉元に、巨大な知のバリケードを築き上げなければならない。

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