ブレヒトとベンヤミン

――『スヴェンボー詩集』に表れた変革の哲学

市川 明

いちかわ あきら | 

ドイツ演劇


一九三三年二月二八日、ナチスによる悪名高い国会議事堂放火事件の翌日、ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht)はベルリンを去った。チェコ、オーストリア、スイスを通ってデンマークへ。そこからスウェーデン、フィンランドへ逃れ、シベリア大陸を横断し、船でアメリカへ渡った。それは一五年に及ぶ世界をめぐる亡命の旅であった。ブレヒトはドイツに戻るまで「靴を変えるよりしばしば住むところを変えながら、階級の闘いの間をくぐり抜けていった」のだ。

一九三三年八月九日、ブレヒトは妻ヘレーネ・ヴァイゲルとともにデンマークの小さな町スヴェンボーにやってきた。デンマーク人作家カーリン・ミヒャエリスの仲介により家を手に入れたブレヒト一家は、一九三三年一二月二〇日から一九三九年四月二二日までそこに住んでいる。海峡越しにドイツを臨むわら屋根の家でブレヒトは、「友だちの闘争を見守りながら、詩を書き送り続けた」。

これらの詩は『スヴェンボー詩集』Svendborger Gedichte(1938)に収められている。スウェーデンとフィンランドには一年ずつしかいなかったので、北欧ではデンマークでの滞在期間がいちばん長い。流浪の民とはいえ、海辺の静かな地でブレヒトは執筆活動に専念することができた。『スヴェンボー詩集』以外に、『三文小説』(1933)、『カラールのおかみさんの鉄砲』(1937)、『ガリレイの生涯』(デンマーク稿、1938)などが生まれた。ブレヒトにとって最も実りある創作の時期だったと言えよう。

ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)は一九三四年六月二〇日にスヴェンボーのブレヒトを訪れ、すぐ近くのペンション、ステラ・マリスに投宿した。ベンヤミンは完成したてのブレヒトの『三文小説』を読み、ブレヒトの叙事詩的演劇に関するエッセイを補完する「生産者としての作家」を書いた。

ベンヤミンは一〇月まで滞在し、カフカの評価についてなど、重要な議論をブレヒトと行なっている。以後ベンヤミンは一九三六年と三八年の夏にスヴェンボーを訪れ、ブレヒトの作品の最初の読者のひとりとして鋭い注釈を加えた。本稿ではブレヒトの『スヴェンボー詩集』の四篇の詩を、ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』と絡ませながら、二人の珠玉の対話を架空の空間で構成する試みである。

 

多数の教授を大学から追放したヒトラー政権は、次に「非ドイツ的」図書を一掃して独裁体制を固めようとした。「書を焚いた」秦の始皇帝に倣って、一九三三年五月一〇日、すべての大学町で「焚書」が行われた。すでに百年前の一八三三年にハインリヒ・ハイネは、「書が焼かれるところでは、しまいに人間も焼かれる」という予言的な文章を書いたが、焚書はナチスによるドイツ破壊と残忍な殺りく行為の先ぶれとなる象徴的な事件であった。

ブレヒトはナチスの暴挙にすばやく反応し、「焚書」Die Bucherverbrennungという詩を書いた。この詩は『スヴェンボー詩集』の第五章『ドイツ風刺詩集』の冒頭を飾っている(13行の詩、5、11、12行目はスペースの関係で訳者が分かち書きしている)。

 

焚書

政府が有害な知識入りの本を

みんなの前で焼けと命令し、いたるところで

本を積んだ荷車を、雄牛を使って

薪の山まで引っ張っていかせたとき、

最も優れた作家のひとりで、追放されたある作家は焼かれた本の

リストを調べ、自分の本が忘れられているのを

知ってがく然とした。彼は怒って

大急ぎで机に向かい権力者たちに手紙を書いた。

私を焼け! と彼はなぐり書きした、私を焼け!

私にこんな仕打ちをするな! 私を残すな! 私が

本の中で真実を書かなかったことが一度でもあるか? なのに今

おまえたちから?つき扱いされるなんて! おまえたちに命令する、

私を焼け!

 

ブレヒトのこの詩のモデルはオスカー・マリア・グラーフである。彼は労働者・農民の視点から多くの優れた社会批判小説、ドキュメンタリー文学を書いたが、ナチスは彼を国粋主義的な作家と誤解して追放しなかった。それにもかかわらず亡命した彼は、焚書のリストに自分の名前がないのを見て「私を焼け」という抗議の文を五月一一日付けのウィーンの「労働者新聞」に掲載した。彼は自分の本が「褐色の殺人者たちの血まみれの手」に渡って利用されることを拒否し、自分の全著作を焼くことを要求したのだ。ナチスはその後、焚書のリストにグラーフを加え、彼の本を焼いた。

『ドイツ風刺詩集』全体に言えることだが、この詩では句またがり(詩句の行末で文意が完結せず次行にまたがること)が目につく。詩行はとんでもないところで切れて、いわば行儀悪く並んでいる。話の流れが思わぬところでせき止められ、休止とそれによる高まりの後、次行で新しい流れとなってあふれ出る。翻訳では表しにくいのだが、この技法により前の詩行のはぐれ子たちが強いアクセントを持って浮かび上がる。

この詩では「私を焼け!」という命令文が三度用いられている。作家は書を焼かれたからではなく、焼かれなかったから怒ったのである。自己のアイデンティティーを失うことに耐え切れず、政府に逆に「私を焼け」と命令する。8行目までの客観的な語りの世界は、9行目の「私を焼け」のくり返しによって「動」の世界に変わる。だから最終行の「私を焼け」は書を焼かれなかった一作家の叫びにとどまらず、ブレヒトの、そしてナチスに抗議する多くの作家たちの良心の叫びとなるのだ。

『ドイツ風刺詩集』はタイトルの添え書きにもあるように、ドイツ自由放送のために書かれたものである。ドイツ自由放送は、ドイツ共産党とSDS(ドイツ作家擁護協会)、モスクワで生活する主に左翼的な亡命者グループによる反ファシズム闘争のための宣伝放送の呼称である。ドイツ国内からの放送であるように偽装されていたが、実際はスペインのバルセロナから発信されていた。

放送は一九三七年一月に始まり、ヒトラー=スターリン条約のあおりを受けて一九三九年に中止されるまで、アジテーターとして重要な役割を果たしてきた。ブレヒトは詩を書き、電波を通してそれをドイツ国民に送り続けたのだ。ブレヒトはラジオをヒトラー・ファシズムが用いたのと同じように、しかもファシズムに反対し、戦うメディアとして利用しようとした。引き出しにしまわれたままの自己の芸術を、国境を越えてドイツ国民や亡命者たちに届けるために。そして日々変わっていく戦争の時代の政治的な出来事に対して、すばやく有効な反撃を加えるために。

(続きは本編をご覧ください)

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