パンデミックとシェイクスピア、あるいは石井四郎軍医中将

新船海三郎

しんふね かいさぶろう | 

文芸評論


疫病は、瞬時に流れを堰き止め、壊し、世界を荒涼とした景色に激変させるものではない。その代わりに、ものごと、やがて自分の何かを元へ戻れない形へと変質させてしまう。

 

ロバート・キャンベル(日本近世・近代文学者)がこのたびのコロナ禍にこのような感想を述べている(「『ウィズ』から捉える世界」、村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる』、岩波新書)。「自分の何かを元へ戻れない形へと変質させてしまう」とは、どういうことなのだろう。

私は、夏にはいつも大岡昇平を読む。ずっと長い習慣のようなものである。大岡さんが背負ってきた戦争と戦後の一端なりともにつながっていたいという思いからだが、いっとき、世上の喧噪を離れて小説世界にすっぽり入り込んでいたいという願望、というか楽しみからでもある。今年は、『わが復員わが戦後』(徳間文庫)を読んだ。大岡さんの「戦争小説」ものとしてはやや地味なものである。

巻頭の「わが復員」は、南方からの引き揚げ船がおぼろに日本の島影を見つけるところから始まる。列車に乗って神戸三宮、乗り換えて西明石、さらに妻や両親が疎開した明石の大久保へとたどり着く。ほとんど実体験のこの小説の最終部は以下のように綴られている。 食卓を囲んでもあまりうれしそうな顔も見せずにいた妻が、二階へ布団を敷きに上がったもののなかなか下りてこない。妻は、そこで声を押し殺して泣いていた。そしてこうつづく。

 

妻と入れ違いに私も上って大の字に寝た。畳の上へ寝るのは一年半ぶりである。背中に当たるのと同じ柔らかい感触の平面が、周りにずっとあるという感じは、まったくいいもんだ。

片づけをすませて上ってきた妻は、横になりながら

「せっかくもう帰って来んと諦めてたのに」と言った。

意味のないことをいいなさるな。久しぶりで妻を抱くのは、何となく勝手が悪かった。

「もし帰って来なんだら、どないするつもりやった」

私は今でも妻と話す時は関西弁を使う。友と東京弁で語り、横を向いて妻を関西弁で呼ぶ芸当を、友は珍しがる。

「そりゃ、ひとりで子供育てていくつもりやったけど、一度だけ好きな人こしらえて、抱いてもらうつもりやった」

「危険思想やな」

我々は笑った。

 

小説においてさえ論理が勝りがちの大岡さんの文章が、この作品ではまったく叙情的である。しみじみ、帰ってきてよかった、の思いがあふれている。と同時に、戦争が妻――おそらく女性たち――を変えたことを感じとってもいる。「危険思想」は自立的にものを考えようとする妻の断固たる気配でもあるだろう。大岡さんはたぶん、それを頼もしく、好ましく思ったにちがいない。

ここにえがかれた大岡さんであろう復員兵には、戦争という非人間の極地から生還して人間を取り戻した喜び、しみじみその実感を妻とともに味わう姿がとらえられている。戦争でさえ、終われば鬼畜の兵は人間に戻っていく、と言いたいのだが、しかしこれは正確でないかもしれない。戦争のそのときにおいてさえ、まちがいなく人間であった者もいたからだ。あとで述べるが、731部隊を率いた石井四郎陸軍軍医中将は、非人間になって人体実験をくり返したのではない。彼はきわめて人間的(俗人的でさえあった)動機から進んでその道をみずから切り拓いていった。彼が人間以外の存在になった形跡は、私が読んだかぎりない。彼のなかでは、医学を志した初発から戦後、開業医として貧しい人たちを無償で診療した晩年まで、「人間」としての生は間断なくつづいていたように思われる。

戦争でさえそうであるのに、新型コロナは「自分の何かを元へ戻れない形へと変質させてしまう」と言うロバート・キャンベルの不安――底知れないと言ってもいい――を、「精神的崩壊」「倫理の崩壊」と社会学者の大澤真幸は考えている。大澤は、コロナによるネガティブな影響が四つあると言い、健康、経済、政治とともに「精神的崩壊」をあげている(「東京」七月六日)。

 

人と人との距離を保つ新しい生活様式は、ユートピアとは対極のディストピア(絶望郷)に近い気がします。チンパンジーは鏡に映った自分を自分だと認識できる動物ですが、孤立して育つとそれができません。人間も、直接触れないまでも息づかいをおたがいに感じられる距離で交流することが感覚の基礎になっている可能性がある。人同士の接触を避ける社会は、精神にネガティブな影響を与えそうです。

 

大澤はさらに、これを「倫理の崩壊」から考える。コロナが命の選択を医療現場に迫り(コロナ患者を受け容れるために通常患者を受け容れない、手術をのばす……など)、それがくり返されるとき、「人間の倫理のベース」を切り崩すと大澤は指摘する。

 

人間の倫理の原点は、最も弱いものをこそ救済する、ということにあります。語弊がありますが、あえて言えば、普通の意味では役にはたたない者こそ、救済されるに値するのです。この弱い者こそ優先されるという考え方は、生命の論理、進化の論理、遺伝子の適応度の論理には、むしろ反しています。しかし、そこにこそ、人間に固有の論理の端緒があります。

…(略)…ほかの動物では、集団で生きていて特別弱った個体を優先させて、生き延びさせる、などということは絶対にしません。衰弱した者は見捨てた方が、遺伝子の適応度は上がりますから。しかし、人間の場合は、最も脆弱な人を助けたい、という独特な感覚があって、そこに人間の倫理や仲間を愛することの原点がありました。

戦争のときでさえ次のような不文律があるのですよ。戦いの最中は、兵士で怪我をしてすぐ治せそうな人は治すし、この人は死んでしまうなと思ったら仕方がなく見捨てるということはやるんですけども、戦争が終わった直後から、最も死にそうな人からまずは治療していくという不文律です。もう助かりそうもないというほどの重傷であっても、最も脆弱な人から優先的に治療していく。

しかし、いま、起きていることの渦中では、僕らの倫理の一番ベースのところにあったこの感覚を繰りかえし蹂躙しなければならなくなります。一回一回は苦渋の決断でたいへんな苦悩をされると思います。しかし、こうしたことを僕らは、集団として容認し承認せ ざるをえない。その繰り返しの中で僕らの倫理的な ベースが著しく蔑ろにされてくる可能性がある。それは非常に大きな精神的な崩壊になる気がいたします。

(「不可能なことだけが危機をこえる 連帯・人新世・倫理・神的暴力」、『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社)

 

「倫理の崩壊」はそこに立ち合った人にだけ起きるのではない。コロナ禍で生きるすべての人に起きうる。たとえば、「どこまで高齢者を長生きさせるために若者たちの時間を使うのか。真剣に議論する必要があると思います。こういう話、政治家は怖くて出来ないと思うんですよ。命の選別するのか、といわれるでしょ。命選別しないとダメだと思いますよ」と、れいわ新選組の党員で、昨夏の参院選に立候補した大西つねきは動画投稿サイトで発言した。

金曜日の居酒屋(大声で話しているがほとんど意味がない)ではない。コロナ禍で誰もが命の不安を思っているときに、堂々と不特定多数に向けて発信したのである。こうもあからさまに言われると、誰もが眉をひそめる。けれども、「新型コロナウイルス感染症対策分科会」が八月、ワクチン接種について、医療従事者、高齢者、基礎疾患を持つ人を優先すべきだとの見解で一致した、と報じられたことについては誰もが当然のように受けとめている。東京新聞の朝刊一面コラム「筆洗」氏も「異論はない」とし、「重症化の危険が高い人と、治療によって感染リスクの高い医療従事者にまず接種してもらうのは当然で、命を落とすケースは最小限に抑えられるだろう」とつづける。

それでいいのか、という異見は聞かれない。そもそも、分科会の検討課題としてこれがいま優先される問題なのかはともかくとして、市中感染がこれだけ広まり、感染源が特定できないケースが増えているときに、この優先順位の付け方は妥当なのか。また、倫理を専門とする人がひとりもいない「分科会」で、命にかかわる優先順位をほんの数時間の議論で合意することでいいのか、私は疑問である。筆洗氏の言う「社会に必要な存在」を並べ立てたいわけではない。私が言いたいのは、「分科会」の提起を当然と思うその心の底に、なんだかおかしな空気が流れていないかということなのである。「異論はない」「当然」と同じる前に、ちょっと立ち止まって、それでいいのかとなぜ問いを立てないのか。答えを求めるに性急になりすぎてはいないだろうか。ワクチンが実用化されるのがいつなのか明確ではなく、仮に来春だとしてもまだ半年以上先の話である。半年などすぐ来るとはいえ、3・11のときに次々と被災者が搬送されてくる病院の様ではいまはない。助ける命と断念せざるを得ない命を分けなければ、助かる命を捨ててしまうことになるという切所に立たされているわけではない。

まだ考えていい時間はある。多角度から検討すべき課題のはずである。少なくとも、感染症と経済の「専門家」の集まりだけで答えを出していい問題とは思わない。ドイツが3・11後に原発廃止を決めるとき、そこに倫理学者が加わって検討したことを思い出してもいいのではないか。問いを忘れることを、私は恐れる。問いを許容、共有することは、民主主義の原点であり、人間が個として尊重される基本でもあろう。現代社会は、〝あなたの意見は私と違うが、あなたがそれを主張するのを私は尊重する〟ことで成り立つ。危機にあればあるほど、命の侵犯に脅かされればされるほど、私たちはそこにしっかりと立たなくてはいけないのではないだろうか。

私は、私たちのうちで知らず知らずに崩されているものがあるような気がする。人間としてだいじなものを一つひとつ?ぎ取られていっているような感じがする。新型コロナというのは、もしかするとそれへの非情な問いかけであるかもしれない。人間どもよ、どこまで人間でいられるか、答えを出せるなら出してみろ、とでも言うような……。

(続きは本編をご覧ください)

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