【対談】 四千の命に押されて

――小説・映画『あん』と冬敏之の一生

鶴岡征雄(作家)・ドリアン助川(作家・詩人)

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ハンセン病療養所26年の埋もれる日々

 

鶴岡 はじめまして。まずは、小説『あん』(2013年2月、ポプラ社刊)の14万部突破と映画(原作・ドリアン助川、脚本・監督河瀨直美、出演・樹木希林ほか)の大ヒット、おめでとうございます。後でカンヌ映画祭のお話なども聞かせてください。

私が冬敏之(*)にはじめて会ったのは、1968年月3日でした。彼が、国立ハンセン病療養所多磨全生園から草津の栗生楽泉園へ移り、何度か社会復帰に挑んだものの、偏見・差別の壁にはね返されていた頃です。『民主文学』に「埋もれる日々」が転載され、それをきっかけに上京してきたときです。それから2002年2月に亡くなるまで、とくに最後の1年は毎日のように会っていた。

 

*冬 敏之(ふゆ としゆき=本名・深津錡(かなえ)、1935年愛知県生まれ。7歳のとき父とふたりの兄とともに多磨全生園に入所。栗生楽泉園患者自治会誌『高原』に発表した「埋もれる日々」が『民主文学』年9月号に転載され、作家デビュー。その後、社会復帰をはたして埼玉県富士見市職員として22年間勤める。短編小説集『埋もれる日々』『風花』(以上、東邦出版社)、『ハンセン病療養所』(第34回多喜二・百合子賞受賞)『風花』など。

 

助川さんの『あん』も本になるまでにはいろいろご苦労があったようですが、冬さんの場合も本にしてくれる出版社がなくて、2001年でしたか、正月にぼくのところに自費出版したいと電話がかかってきたのです。それで、短編集『ハンセン病療養所』を出したのですが、発売日の翌日、5月11日に「らい予防法違憲国会賠償訴訟」(国賠訴訟)の画期的な熊本判決が出たのです。その劇的な巡り合わせとマス・メディアでも取り上げられて、自費出版本としては異例の1万部が売れました。大変な反響でした。

冬さんは、小説で世に出るまで、26年間もの〝埋もれる日々〟があったわけですが、私も中学を出てすぐ上京し、15歳から向島の町工場に入り住み込みで働き出しました。小さいころから虚弱体質で神経質で気が弱かった。それでいて向こう意気だけは強かった。私の〝埋もれる日々〟でした。というのも、少年期に小説を書きたいなどというとんでもない野心をもったばっかりに、苦しい思いをしたわけです。冬さんの人生に共感・共鳴していたので、彼が死んだとき伝記を書くと決心したのですが、『鷲手の指―評伝冬敏之』が本になったのは12年半後のことでした。

冬さんの人生は、療養所生活、作家生活、地方公務員時代、晩年の国賠訴訟原告というように変化に富んでいます。退所後、大卒の女性と結婚し、一女の父となり、その子も大学を出てアメリカに行き、2児の母になりました。逆境にいた人間としては稀な人生、血の滲む人生を送った努力の人です。

評伝の取材で各地の療養所などを訪ね歩きましても、あまり女性の姿を見かけることはありませんでしたが、『あん』の主人公は療養所の元患者・吉井徳江さんですね。新鮮な思いで読ませてもらいましたし、難しい問題をわかりやすく、しかも斬新な切り口で書かれて、いいなあ、と感銘を受けました。映画では樹木希林さんが徳江役を演じていますね。

助川 ありがとうございます。鶴岡さんの『鷲手の指 評伝冬敏之』を読ませていただいて、胸にしみじみ入り込んできました。とくに、冬さんの女性への興味といいますか、〝女が好きだ〟っていうところ、好きですね。最後のところも、肉体としてはもう半ば以上死んでいるようなのに、おっしゃった『ハンセン病療養所』の感想文(中学3年生の佐藤美奈子さん)が読書コンクールに選ばれて表彰式に行かれるでしょう。甦りますよね。

鶴岡 あのときの喜びようは大変なものでした。昂奮状態でした。

助川 あれが、中学3年生でもいがぐり坊主の男子だったらどうだったんだろうってほほえましく思いました。ゲーテが女性への興味で命を永らえさせていたのと同じような気がしました(笑い)。

鶴岡 おっしゃる通りです。

助川 ハンセン病を意識するようになったのは、ラジオの深夜放送をやっていたときでした。1995年から2000年ぐらいまでやっていたのですが、ちょうどらい予防法が廃止されて国賠訴訟が起こされる時期で、メディアもいろいろ取り上げるようになっていました。新聞連載を読んだんだと思いますが、義憤にかられたといいますか、なんてひどいことがあるんだ、という思いがしました。

そのとき、何か出来ないか、って思ったのが始まりですね。性分なんです。虐げられた人たちをみると放っておけないというか、応援したくなるんです。

鶴岡さんもこの本でおっしゃってますが、ぼくもハンセン病については遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』(1968年)とか、松本清張の『砂の器』(1961年)、それと映画の「ベン・ハー」(1959年)で知るくらいでした。小説には、鶴岡さんと同じような怒りをおぼえました。療養所に入れられると人生は終わりで、地獄でしかない、というような書き方ですものね。でも、そこで生きて生活していて、結婚もしている。悲喜こもごもがあるのに一色に塗りたくっていて、違うんじゃないかって思ったわけです。文学者の罪みたいなものも感じました。

鶴岡 元患者を泣かせたり、怒らせたりした。

助川 それで何か出来ないかって、あるとき新宿のゴールデン街で飲んでいるときに、懇意にしていた編集者に言ったんです。すると後日、彼が明石海人の歌集をくれたんです。

鶴岡 『白描』ですね。

 

(以下は本誌でお読みください)

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