【巻頭言】明治維新150年に思う

宮地正人

みやち まさと | 季論21編集委員・日本近現代史



2018年は明治維新から150年、各地で郷土の名士を顕彰、観光資源にする取り組みが進められ、政府も「明治以降の歩みを次世代に遺す」「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」の二方針の具体化を図っている。稲田朋美氏も「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻す」のだと発言しているので、その方向性が伺えよう。丁度50年前の1968年は佐藤栄作首相の音頭取りで「明治百年記念式典」が盛大に挙行され、15年戦争の位置づけを全く欠落させたまま、近代化の功績のみを一方的に強調しながら、明治維新を高度成長期の現代に直結させようとした。

当時私の所属していた歴史学研究会は、このような歴史の歪曲に対しては日本帝国主義の問題性を正面から対置すべきだと、67年の大会報告は日本帝国主義形成期の矛盾の集約点となった1905年9月「日比谷焼打事件」をとりあげることとなり、経済史の中村政則、民権研究の江村栄一両氏の驥尾に付し、私も全く他律的に日露戦後経営の目玉「地方改良運動」のペーパーを作成することとなった。

それまでは未知の分野だったのだが、このテーマに魅了され、修論もこれで書き、その後も当該時期の研究を続け、目途がついたら次は戦後史だと意気込んではいたが、何よりも生活が大事、運よく1973年入所出来たのが東大史料編纂所、その最も現代に近い部屋が維新史料部、しかもその編纂時期の下限が1871年7月14日、廃藩置県当日だということに入所して初めて気がついた。

但し、もともと公務員的体質なのか、個人研究よりも業務優先と、心の葛藤もあまり無い侭、先輩諸氏の指導のもと幕末史史料の編纂に没頭しだすとともに、これまで考えたこともない幕末維新史研究史も業務のあいまに調べ出したのである。とすると、私の配属された部屋は、日露戦後の1911年、天皇制国家によって創設された維新史料編纂会の文部省内に設置された編纂事務局で、戦後厖大な蒐集諸資料と4千冊以上の史料稿本と共に編纂所に移管され、今の業務はその継続だということが理解されてきた。編纂期日の下限は編纂会発足時からの決定なのである。

ところで、日本人男女の頭にこびりついている時代区分、即ち廃藩置県で封建制廃絶、近代天皇制国家の洋々たる出発という時代区分はそれ以前からのものかというと決してそうではない。福沢諭吉や田口卯吉の「文明史観」でも一つの区切りとしているだけであり、竹越与三郎は彼の『新日本史』(1891~92)において、1868年をさかいに「維新前期」と「維新後期」に分け、「維新後期」のハイライトは自由民権運動期だとし、立憲主義の前進を阻止すべく伊藤博文の保守政略が出現するとの論理展開と歴史叙述をおこなっている。このような維新観はその後も脈々と流れており、土佐出身の社会評論家田岡嶺雲は1910年の『病中放浪』で、「明治維新の偉大なる所以は、其の階級を打破し四民平等の大義に侚へたるに在り。伊藤(博文)氏が新に五爵の制を作し、華族に一種の特権を与へたるは、維新革命の大效果を破壊したる者、(中略)其の貴族院なる者を置かんとせるの本意は、陽に皇室の藩屏たるに籍辞し、陰に藩閥の擁護たらしめんとせしに出」でしものと喝破している。

田岡の見解は当を得ている。上述の維新史料編纂会の前身は、帝国議会開設2年前の1888年、明治天皇が王政復古に大功績のあった水戸・毛利・島津・山内大名華族四家に、それぞれ藩主の地位を去り封土を返上した廃藩迄の「国事鞅掌史料」の編纂を命じた各家の家史編纂組織であった。他方出発時には多くの大名華族家の家史編纂者連絡会だった史談会は、藩閥史観から脱却、1900年代に入ると草莽層を含め帝国議会開設迄に国事に殉じた人々の顕彰をおこなうようになってきた。上記の四家はこのような史談会から当然離脱し、そして1911年、総裁に井上馨、顧問に山県有朋・松方正義・土方久元ら薩長土藩閥長老がなるという維新史料編纂会が発足するのである。

編纂会の成果は『維新史』全5巻の記述となって、1941年迄に維新史料編纂事務局の名前で刊行されるが、勤王雄藩卒先しての封土返還こそが封建制度の廃止、天皇を核とする近代日本の出発とはじめから決められてしまっていた以上、その結論は、「茲に明治天皇には先帝の遺緒を承けさせられ、畏くも天下と休戚を共に遊ばさるべき叡慮を以て八紘一宇の皇謨に依り、百事創業の精神を以て庶政を一新すべきことを宣し給うた。尋いで版籍奉還・廃藩置県が断行せられて、封建の制度は全く拂拭せられた。蓋し版籍奉還の如きは、他国に於いて国土・人民を所有する大小の貴族に対し期待すること能はざる至難の事業である。これ全く天皇の御稜威と国体の尊厳により遂行し得たものであると欧米の政治家及び碩儒は驚歎賞讃した。是に於いて維新の大業は成就して、永く丕基を後世に貽","のこすにいたったのである」とされるのである。

 

 


 

治安維持法による弾圧の嵐があれくるい、侵略戦争へのいかなる抵抗も許容されなかった1932~33年、野呂栄太郎を理論的リーダーとして『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から刊行された。財閥独占資本と半封建的地主制に依拠しつつも、相対的に自立する絶対的天皇制と文武天皇制官僚集団を如何に科学的に把握出来るかの課題の解明がそこには賭けられていたのである。資本家達はブルジョア民主主義の立場をとるどころか戦争政策に便乗し、地主達は小天皇として在地に君臨しつづける。丸山真男がいう如く、1875年刊行の『文明論之概略』迄も伏字を強制される社会は感覚的にも絶対主義との用語雰囲気が適切だったのであり、すぐれた民法学者の川島武宜も敗戦を迎え、「外国の民主主義革命について我々が歴史の本で読んでいたようなことが、自分の生きているうちに目の前で起こるのだ。社会科学者としてこんな興味のある経験はない」と述懐している。また一国史的発展段階史観との批判もあと智恵批判だと私は考えている。この当時の研究者は御稜威とか国体とかいう非社会科学的用語を拒絶しようとすれば、純粋封建制から絶対主義、そしてブルジョア革命というカテゴリーを駆使する外なく、他方中国も含めた東洋は「アジア的停滞論」で?まえられていた。世界史の動向がもっとダイナミックに、そして世界史の相互関連の中で理解されはじめたのは、1949年の中国人民革命以降のことだろう。

しかも絶対的天皇制支配の分析には日本帝国主義と植民地支配の研究が不可欠だが、植民地独立に言及すること自体が「国体変革」とみなされる狂暴な時代においては、あらゆる説明が明治維新の中に持ち込まれなければならなかった。講座派の立場に立つ論客の多くが封建制最終段階の絶対主義国家が天皇制国家だと、その歴史段階を実際以上に後れたものと規定した要因の一つがここにある。

講座派論客の中では服部之總が最も柔軟に維新変革全体をつかみとろうとしていたと私は思っている。社会学出身者らしい図式主義と都合のいい諸事実だけを拾い上げて図式の説明とするやり方は、史学畑の私には辟易ものだし、30年代当時、日本資本主義の本尊と祭りあげられていた福沢への時論的批判など、明治初年代にそのまま持っていくのには私は賛成しない。だが、『黒船前後』所収の「志士と経済」など、幕末維新期と民権期とを不可分離な総体として理解しつくそうという服部ならでは書くことの出来ない良質のエッセーである。評判のよくない彼の「厳マニュ時代」論をとってみても、彼の創り出した絶妙の表現「チョンマゲを結ったブルジョアジー」、全国各地の豪農商及び在村知識人達の二つの時期を通じての役割を研究する上では彼にとっては不可欠のカテゴリーだったのである。

今日の民権研究では忘れられがちな1874年民選議院設立建白や75年ワッパ騒動の森藤右衛門、更に78年竹橋暴動など、服部はきちんと通史展開の中に位置づけている。藩閥政府が案出した時代区分にいつまでもひきずられず、歴史的論理的に明治維新変革総体を考える上では、服部の仕事は未だ過去のものになってはいないのである。

(日本近現代史、本誌編集委員)

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