【対談】 共謀罪から半年

「表現の自由」の現在、メディアの役割

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新垣 毅(琉球新報東京報道部長)

山田健太(専修大学教授、言論法)

 

「表現の自由」規制の総仕上げ

山田 共謀罪法が成立して半年が過ぎました。あらためてこの法律の意味合いを考えてみますと、一つは、この間、表現の自由をさまざま規制しかねない立法がつづいているなかで、その総仕上げといってもいいものであるという点です。安倍政権のこの点での立法のやり方には特徴があって、必ずといっていいほど、「配慮」「留意」の文言を付け加えています。たとえば、第一次安倍政権のときの「日本国憲法の改正手続きに関する法律」では、「国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」としています。第二次安倍政権のときに強行された「特定秘密保護法」では「国民の知る権利の保障に資する報道または取材の自由に十分に配慮しなければならない」、さらに安保関連法のなかの「武力攻撃事態等における国民保護のための措置に関する法律」では、「言論その他表現の自由に特に配慮しなければならない」となっています。そして今度の共謀罪です。「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画」について、「取調べその他の捜査をおこなうに当たっては、その適正の確保に十分に配慮しなければならない」。これは、内心の自由に踏み込む恐れがあるから、「十分な配慮」をいっているのでしょう。

「留意」「配慮」をわざわざつけた法律というのは、実はこの四つしかありません。つまり、侵害する危険を十分承知しているからこそ、わざわざいっている。裏表の関係です。その意味では、いかに危険な法律をつくり続けているかということです。

この「配慮」について、ぼくは二つのことを思っています。一つは、そもそも憲法に保障されていることをなぜあえていうのか、という点です。やはりその法律にそれを侵す危険性があるということの証左だと思います。もう一つは、たんに「配慮」するとだけいっているのではないことです。

秘密保護法に端的に示されていますが、次の第2項では、「取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反または著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とする」というのですから、該当するか、あるいはするかどうか分からない行為は捕まえる、といっています。「公益」が規定されているわけではありませんし、「不当な方法」も現場の判断であったり、裁判官の判断であったりします。しかし、その判断の背景になるものは、社会通念であったり倫理観なわけですから、それを警察官や裁判官が勝手に判断できるのか、という問題が出てきます。そういう立法上の大きな問題がある。

共謀罪法の意味合いの点で二つ目に、この15年間ぐらいのことになりますが、恣意的な行政権限の拡大がつづいていることです。典型的なものは放送分野における行政指導ですが、それ以外にも、沖縄の山城博治さんの逮捕などがあります。通常ならばありえないような長期にわたる拘束をする。そういうなかでこの共謀罪があります。議論されてきたように、この法律は恣意的な捜査権限を拡大するところに大きな危険があります。表現、報道の自由に大きくかかわることはまちがいありません。

三つめには、市民社会の変質という点です。国家安全保障が唯一無二の規範になって、国家安全保障のためなら何をしてもいい、みたいな雰囲気が市民社会のなかにできつつあることです。それと裏腹ですが、それに反する行為はみな非国民だ、反日だ、となってきて、政府を批判する行為を押しつぶすような空気が蔓延している。

これらは、この15年ほどのあいだに徐々に、着実に広げられてきたわけですが、それがいまや立法、行政、市民社会をつつむ空気感になってきていて、その総決算のかたちで出てきたのが共謀罪だとぼくは思っています。法律としては小さなもので刑事法や刑事訴訟法などの一部に過ぎませんが、たとえば表現の自由などは一人歩きする危険性を持つ、非常に大きな法制度だと思います。

 

社会全体に遠慮のなさ

 

山田 そう考えると、ポスト共謀罪法といますか、施行後いったいどうなるかが見えてきます。まだ半年ですから直接使われた事例はありませんが、一つは、社会全体の遠慮のなさがあらわれてきていることです。国会での発言をふくめ政治家の言葉に端的です。あるいは、何をやっても許される雰囲気が広まってきています。もう一つは、それに反するようですが、あきらめ感が広がっている。市民社会のなかに、何をいっても無駄だよね、どうせ通るんでしょ、という感じがつよまっている。今回の名護市長選挙もそれがあると分析している人もいますが、そういう雰囲気、空気感です。それが、消極的自民党支持、政権支持につながっている。

ここから、表現の自由をめぐって何が起きているかというと、オールタナティブ・ファクト(一般的には事実と見なされていない事柄を「それも一つの真実だ」と述べるというもの、代替的事実)の一般化がこの半年のあいだにいっそう進んだというのがぼくの見方です。たとえば、この国会での安倍さんの朝日新聞批判です。自分の意見が正しく、朝日新聞なりその他の報道は正しくない、と断じる。あるいは、あとから出ると思いますが、東京MXテレビ「ニュース女子」の辺野古報道であるとか、沖縄の自動車事故をめぐって琉球新報と沖縄タイムスが米兵による民間人救出を報道しないのはけしからん、という、産経新聞の誤報問題などもそうです。これは、見方を変えるなら、社会の分断化がいっそう進んだといえます。産経新聞は、今回は謝罪しましたが、特定のメディア、個人をしつこく狙って攻撃してきました、東京新聞の望月(衣塑子)さんとか。

その結果何が生まれているかというと、表現の自由の可動域が縮まっている。それだけでなく、表現の自由をふくめた基本原理の崩壊が始まっている、ともいえるのではないかと思っています。戦後70年余、日本国憲法のなかで市民社会がかろうじて維持してきた表現の自由とか、基本的人権にかかわるゆるやかな合意というもが壊れかけていて、それが憲法改正の助走になっているように思えます。

ぼくは、安倍政権が進めようとしている改憲は、国民の自由や権利を保障する憲法から国民に義務を課す憲法に変えるところに大きなポイントがあると思っています。そこにつながる雰囲気づくりが、共謀罪の成立をきっかけに進んできている。そこに、くり返していうと、この15年くらいの、立法、行政、市民社会のなかで進んできたある意味での到達点があるんじゃないでしょうか。

 

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