全体主義に抗するために

――フランクル、ケストナー、アーレント

池田香代子

いけだ かよこ | ドイツ文学翻訳家



「憲法の一条一条には、過去の不正義との戦いが刻み込まれている。」

これは、ドイツの政治哲学者、ユルゲン・ハーバーマス(一九二九年?)のことばです(『事実性と妥当性』一九九二年刊)。ナチス党員の親のもと、典型的な「軍国少年」として終戦を迎えたハーバーマスは、戦後、ナチス時代への痛切で根元的という意味でラディカルな批判をその研究の礎にすえました。

また、東西ドイツの再統合にさいしては、民族主義ではなく、人類普遍の価値に基づく憲法を尊重した国の再出発を提唱しました。

ハーバーマスによれば、憲法に盛りこまれた価値とは、人類が不正義と戦い、その結果獲得した、すべての人類が認める正義にほかなりません。しかし、実際に憲法に条文として書きこまれる「正義」は、個々の国が憲法にたどりつくまでにたどった歴史に違いがある以上、その国独自のあらわれかたをします。侵略戦争が悪であるのは普遍的な正義ですが、それをしてしまった日本にとっては、憲法に戦争放棄を書きこむことが普遍的正義にいたる独自の道であったりするのが、その例です。

では、日本と同じく悲惨な戦争を引き起こしたドイツの憲法(基本法といいます)に、日本の憲法九条にあたる条文はあるのでしょうか。あります。けれど、それは戦争放棄をうたった条文ではありません。

「政治的に迫害されている者は、庇護権を有する。」(第十六a条)

これが、ドイツ基本法におけるいわば日本国憲法の九条です。ナチス時代、ドイツは本国や占領地から、政治犯とみなされた人びとやユダヤ人など、おびただしい亡命者を出しました。それを踏まえ、これからは逆に迫害されている人びとをうけいれる国になる、と宣言することで、戦後の国際社会への詫び状とし、平和への貢献の宣言としたのです。

昨年(二〇一七年)十月の選挙で、メルケル政権は支持を大きく減らしました。理由はいろいろありますが、最大の理由は難民政策です。二〇一五年には、百万人近い難民を中東などからうけいれました。社会はきしみを生じ、国論は割れ、過激な排外主義的な政治勢力がいきおいづきました。

なぜメルケル首相はそこまでして難民をうけいれようとしたのか。メルケル首相は、ドイツ基本法第十六a条を守ろうとしたのです。難民うけいれをめぐって、ドイツでは大きな憲法論争が起きていました。この点がなぜ日本ではまったくといっていいほど報じられなかったのか。この国のジャーナリズムには、首相が憲法順守義務のもとに行動し、政治的リソースを使い果たしても憲法を尊重しようとしたことを報じるのはぐあいが悪い、という配慮がはたらいたのでしょうか。だとしたら、いったいなににたいする配慮だったのでしょうか。

 


 

話をドイツに戻します。

ドイツが基本法にあのような条文を書きいれるにいたった前史、とりもなおさず、ユダヤ人をはじめとする大量虐殺の歴史を振り返ってみます。

第二次世界大戦初期、電撃的な侵略で占領地を広げていったナチスドイツは、各地で住民や戦争捕虜の大量虐殺をおこないます。郊外の森や谷間で銃殺し、死体は埋めました。ところが、当時のヨーロッパは、東に行くほどユダヤ人が人口に占める割合が高かったので、銃殺では追いつかなくなります。加えて、実行に及ぶドイツ兵が、今でいうコンバット・ストレスに悩まされるようになり、他の方策をとらざるをえなくなります。

それが強制収容所です。もっとも有名な、もっとも大規模な収容所が、アウシュビッツ強制収容所でした。

アウシュビッツ収容所は、ポーランドの南の端、ウクライナとの国境近くのオシフィエンツィムの町のそばに作られました。「アウシュビッツ」は、ポーランド地名「オシフィエンツィム」のドイツ語風の読み方です。

ここは、近郊に水や石炭や石灰が豊富で、ヨーロッパ鉄道網のハブ的位置にあったため、大手化学企業IGファルベンなど、ドイツ産業界が工場用地として目をつけていました。IGファルベンは合成染料、窒素肥料、合成ゴム、合成石油など、化学製品を生産する、当時、世界有数の企業でした。「ファルベン」は「色」「染料」という意味ですが、社名からはこの化学産業トラストが染料から始まったことがみてとれます。のちにIGファルベンは、ガス室で使われるチクロンBも生産するようになります。

一九四一年三月、親衛隊長と秘密警察ゲシュタポ長官を兼任するハインリヒ・ヒムラーは、ポーランド軍の兵営を利用していたアウシュビッツ収容所を視察し、収容者数を3万人規模に拡大する計画を立てます。

同じ年の九月 アウシュビッツ収容所で初のチクロンBによる毒ガス殺実験が、ソ連の捕虜や病人を対象に、立ち牢や餓死牢のある十一号館の地下で行われました(この二カ月前、日本ともゆかりのあるコルベ神父がここで亡くなっています。ある人の身代わりを志願して飢餓牢に入れられ、最後は薬殺されました)。

さらに秋には、一万人のソ連戦争捕虜が近くのブジェジンカ村で、ビルケナウ収容所(アウシュビッツ第二収容所)の建設に投入され、第一収容所と合わせて最大十一万人を収容できるようになります。「ブジェジンカ」はポーランド語で「白樺の野」というほどの意味ですが、「ビルケナウ」はそのドイツ語訳です。たしかに、被収容者が隠し撮りした、木立の中で服を脱がされている犠牲者の写真には、白樺の木が写っています。美しい土地、それにふさわしい美しい地名が、人類が経験したおぞましい犯罪とともに記憶されることになってしまいました。

一九四二年一月、ベルリン郊外のヴァンゼーで開かれた会議で、「ユダヤ人問題の最終的解決」つまり民族絶滅計画が確認されます。そして翌年の五月、ビルケナウ収容所にガス室と死体焼却施設をそなえた「クレマトリウム」が完成し、ガス室に送る人を選別し、人体実験を行って「死の天使」として恐れられた医師、ヨーゼフ・メンゲレが赴任し、アウシュビッツ収容所はおぞましい機能を完全に発揮するようになります。それは一九四五年一月、ソ連軍によって解放されるまで続きました。

ナチスの強制収容所は、一九三三年から一九四五年のあいだ、ドイツ国内や占領地に大小合わせて二万カ所も設置されました。常時、百万人が収容されていましたが、被収容者のほとんどはいくつかの収容所を移動させられたので、収容所ごとの被収容者数を累計すると、およそ八百万人から一千万人にのぼり、そのうち命を落としたのはおよそ六百万人、アウシュビッツではおよそ百万人が犠牲になりました。

ところで、収容所に収容されたのは、ユダヤ人だけではありませんでした。定住しない生活様式をもつロマの人びとも、排除すべき民族として早くから収容されました。けれど最初期には、共産主義者、社会主義者、反ナチ活動家、反ドイツレジスタンスなどの政治犯が主な被収容者でした。徴兵拒否のエホバの証人信者、ナチスに批判的なカトリック聖職者なども、思想犯として収容されました。ソ連軍捕虜も、ビルケナウ収容所のところで触れたように、収容され、過酷な労働を強いられました。

収容所には、さらにさまざまな人びとが入れられました。累犯者、ホームレス、労働忌避者、同性愛者、アルコール依存症患者、訴訟頻発者、交通規則違反者、遅刻無断欠勤常習者などです。しかし、ここにあがっている理由の数々には、猛烈な違和感と疑問がわきおこるのではないでしょうか。いったい何回犯罪を犯したら累犯者と認定されるのでしょう? どのくらいの期間野宿したら、収容所に送られるべきホームレスなのでしょう? 労働忌避もアルコール依存も訴訟頻発も、どの程度を指すのでしょう? 交通規則違反や遅刻無断欠勤にいたっては、線引きの基準はどうなっていたのでしょうか?

そして、いったい誰が、収容所に送るべき人を決めるのでしょうか? 誰が、同性愛のようなプライバシーにかかわることを知るのでしょうか?

おおよその予測はつくと思いますが、職場や町内会といった身近なコミュニティで、ナチ党員としてなにがしかの権力をふるっていたおびただしい小ボスやその取り巻きたちが、同僚や隣人を監視し、密告し、ほしいままに摘発したのです。基準があいまいな理由では、日頃気に入らない人物にはきびしい点数をつけました。これが、全体主義的な社会のありようです。支配のピラミッドからしたたり落ちる権力のおこぼれにあずかった、ごく平凡な市民が、虎の威を借る狐と化し、隣人に殺生与奪の権をふるうのです。

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